おどりながらあるく
projectという言葉に、ふさわしい訳語がなかったことが、駄目の原因だったのかもしれない
問と答。主と客。地と図。意味と象徴。仏と人。アルファとオメガ。日と月。天と地。一瞬と永遠。全と個。心と身体。わかることと、わからなくなること。
余話だけに。余話ながら。余話にこそ。それは個人の無意識か、それとも時代の通奏低音か。 あるいは悠久の縄文時代への憧憬として。
執着を手離す。ただ、それだけ。だが、これが一番むつかしい。一歩ずつ、無理なく歩いていくための4つのレッスン。
これからの世界を考えるには、これまでの世界を理解する必要がある。これまでの世界を理解するには、これからの世界を考える必要がある。
ふと、プ譜のテンプレートを配布しようと思った。 どこかのだれかの、役に立てると嬉しい🙏
今日は、平日日中、白昼堂々と、己の若僧時代のあれやこれやをありありと思い出し、夜はリアルタイムの若者の若気の至りについて向き合うという、なんとも不思議な一日だった。 若い、というのは、実に不思議な現象である。何者かであろうとし、何者でもないという事実に直面し、空転する。それを人は、生き急ぐと呼ぶ。
昨日は久しぶりの超短期独身生活にテンションが上がって、珍しくnoteとFacebookのダブル投稿に及んでしまったわけだが、実際のところ、四六時中家族と干渉しあう生活と、ひとりで暮らす生活は、まったく手触りが違うのである。 まず、時間の流れる速度が違う。ゆっくりしている。空間も、いつもより広く感じる。部屋の温度はいつもより低い。 住環境の違いは、おそらく世界観や宇宙観、人生観や社会観にも影響するのだろうなと思う。 *** 里帰り先から、子どもの満面の笑みを写した写真が送ら
この週末は、妻と子らは里帰りである。そして朝一番の仕事を終えて、夜の飲み会まで特に予定はない。 こういうときは、変に時間が宙ぶらりんになっていけない。さてどうしようか、と事務所を出て、なんとなく光悦でも観に行こうかと歩き始める。本屋に出くわす。こういうときは、一冊なにかあった方がいいが、昼食前で、空腹である。 本は、迷い始めると、時間がかかる。どうしようか、と思いつつ入ったら、なんと、宮沢章夫の遺作が棚に刺さっていた。これは買わない手はない。 歩きながら読み、読みながら歩く
謎を解いていた。少ないヒントから次のヒントを探し出す。 たどっていった先に、神様なのか天子様なのかわからない、やんごとなき気配。帷や扉、畳などのアイテムが、どれもこれもかぐわしく、神々しかった。 神様なのか天子様なのかわからない、その気配がする存在から、最後の謎を賜った。解こうとしたが、時間がわずかに及ばなかったような…いや、あれは間に合ったのだろうか。カラクリがわかって初めて問題を認識することができる類の謎であった。最初から、解くことは可能だった。 最後、白菜を刻みながらサ
2023はストレスフルな一年だった。年明け早々は引っ越しがあったのだが、なんやかやと事後処理が大変だった。で、新たな委託案件を受けることになったがこれもこれで色んなことがハッキリしなくてグズグズな進行で。同時並行で、ひょんなことから個人の独立支援の取り組みに手をつけることになったが、あの頃はかなり正気を失っていたと思う。 なんやかんやしながら通常業務も盛況で、スケジュールを全うできるのかヒヤヒヤしながらやっていた。連続ものの企画を2つ新たにやることになったのだが、よくやったも
好かれようとか、いい奴だと思われたいとか、駄目な人間と見られたくないとか、そういうことに煩わされることに、さしたる意味はない。 そういうことに、気づくまでに、時間がかかりすぎたなぁ…と、思う。
改めて、初代マクロスを履修し直してみたら、中身をほとんど覚えていなかった。部分的には記憶があるので、見たことがあるはずなのだが… それはさておき、リン・カイフンというキャラクターが印象に残った。なんだか、アルトの原型のような雰囲気だった。何かにつけて反抗的な、という。 ちなみに、先ごろFを見返して、そういえばシェリルには歌うと健康を損なう設定があったのだったと思い出した。その属性が、Δではフレイアに継承されていた。美雲でなくフレイアに、というところが、ノウハウなのだろうと思っ
たまに人と食事をさせてもらうと、ひとりで悶々としていたことが解決に向かう。これほど有り難いことはない。 そんなことをしてみると、見えてくるものもある。 プロジェクトで傷ついた心を癒やす。 確かにそれが、それこそが、目指したいところなのだ。 大それたお金を払う必要はない。 少しのお金で知識を得ることができて、それを参考にして、いまより少し、自愛ができれば、それでいい。 そういうなにかを、作りたい。
今日は、某企業での4回構成のプログラムの、最終日だった。 結構、無理難題な、というか、話の筋がよく見えないというか、あれもこれもやりたくて、といった文脈からスタートした取り組みだったので、どうなのかなと思いながら始まった案件だった。 しかし、その他様々な案件に忙殺されていて、深く考えたり議論をしたりという時間もなく、えいやっ、と、方向性を出して、取り組んだのだった。 結果としては、案件としての客観的な評価値としては、マイナス20からプラス75ぐらいに引き上げることができた。も
最近、少し時間の余裕ができて、マクロス7をポツポツと観ている。 観ながら思ったのは、自分の人生観が、ほぼほぼマクロス7によって構成されていたのだった、ということだ。反体制で、徒手空拳で、好き勝手やって、世界を救う。最初は誰にも理解されないけど、徐々に支持者を獲得していく。暴力や権力に対するアンチテーゼ。 青春時代にこの作品に触れたことが、もしかしたら、自分の人生に大きく作用していたのかもしれない。 それにしても、大人になって、改めて観ながら、少しネットで情報に触れてみると、
できるだけ普遍的な、真実に近いことを語るためには、メタ化あるいは概念化、抽象化、構造化をすることを避けるわけにはいかないが、それを言葉で語った瞬間に、嘘が始まる。 できるだけ誤解のないように伝えたいと思うと、その状況そのものを作り出すという荒技に出るしかないわけだが、契約された委託業務のスコープからの逸脱も辞さずという覚悟がなければ、その一線を超えることは叶わない。 かつまた、そうした日常を、非日常的価値創造の実践そのものとして遂行しており、だからこそ、その場に真実味が幾許か
ブルシットジョブって、リベラル系の人たちの言葉だったのか。フェミニストは宦官をどう評価するのだろう、と、この記事を読んで、ふと、思った。 決裁者よりもそれを支える人(たち)が実質的な権限を持ち、組織や社会を動かすのは、古今東西、どこにでも観察される現象である。それを「搾取」として解釈することに、どこまで意味があるのだろうか。 問題は、ブルシットな仕事があるんじゃなくて、仕事をブルシットだと思う人がいる、ということなのだろう。 もちろん、本当にブルシットな仕事は世の中にう
なんか、ふと、思ったんだけど、自己肯定とかモチベーションとか、あとは心理的安全も含めていいんだけど、そのようにして名付けられたものたちは、その字面がにおわせるような、なまやさしいものじゃあないんだぜ、という。 自己否定は、ある種、人類に課せられた宿命みたいなものであって。己を肯定する、というのは、一生を賭けた闘争なのであり、上司や教師や親兄弟が、つけてあげられるような類のものではない。 なんか、ふと、言いたくなっただけ、なんだけど。
「戦う姫、働く少女」は、基本的には、かなり興味深く読んだのだ。かなり面白かった。しかし、時々あらわれるフェミニスト的文法に、かなり苦々しいものを感じた。 その苦々しさの内実を、掘り下げて考えてみたい。 トップバッターの「アナ雪」批評については、なるほどと思うことのほうが多かった。 たぶん、以下の要約で、大体の論旨は捉えられていると思っている。 ちなみに、本書で語られるフェミニズムの歴史を、以下、ざっくりと要約しておく。 おそらく著者は、第三波フェミニズムを一定程度肯定的
人生も世間も、なるようになるように、できているし、落ち着くところに落ち着くように、できている。 今日、人と話していて、そんな言葉が、自分の口から出てきて、なんとなく、びっくりした。 確かに、色んなことを経てきて、今となっては、その通りだとは思うようにはなったけど、まさか、自分が口にするとは。 でもまぁ、実際、平凡な言葉に見えるけど、ほんと、この言葉は、味わい深いものだ。若い頃、色んな大人から聞かされるたびに、内心、鼻白んでいたものだけれども…人生、生きてみないと、わからな