HUNTERXHUNTER列伝 「蟻の女王」

「身体感覚で読む論語」なる本を読んで、これが滅法面白かった。

中国古典を、その字の成り立ちまで遡って考えるという、私が孫子でやりたくてうまくいかなかったことが、とうの昔に論語で実現されていて、あの仕事を成すには想像を絶する修業が必要だったのかと思ったのだった。あまりに無謀なアイデアだった。笑
同時に、この本で紹介されている成果、すなわち、人、組織、秩序の問題について考えるにつけ、これまで細々とやってきた仕事に引きつけて考えたい欲求に駆られてしまい、この文章を記している次第だ。

とはいえいきなりそんな大仕事に挑むのは無謀なので、ここはひとつ、この書とHUNTER×HUNTERを連想したらどうなるのか、というテーマでひとつ思うところを書いてみたい。

本書が提示するロジックの土台は、下記の歴史的経緯の研究結果である。

・漢字が生まれたのは、孔子が生まれる800年ほど前のことだった
・孔子が生まれる500年ほど前に心という字が生まれた
・ただし、心の字を含むのは数十文字ほどで、またまだ少なかった
・現代のように、心の字を含む文字が多数使われるようになるのは、
 孔子の死後300年以上後のことだった

このような文字の発達段階の歴史を踏まえて、著者は、人類は進化の過程で文字を生み出したが、紀元前3000年頃においては、現代において自意識と呼んでいる現象は存在しなかったのだ、というのである。傍証として、イリアスを例に挙げることで、西洋においても同様の現象が見られることや、認知科学の最新研究成果を参照するのも怠らない。

ではどうやって生きていたのかというと、二分心という言葉でそれを説明する。内なる声あるいは神々の声を聞く部分と、それに従って行動する部分に分かれていたという。
そんな言い方をすると、オカルトとか新興宗教ぽい感じがするが、なんのことはない、文字が生まれた前後あたりまでは、我々の先祖は、犬や猫、あるいは鳥や猿みたいな、はたまた蝶や蟻のような感じで生きていたのだろうということだ。言語による思考はなくても、生き物は生きていける。我々は、言語に頼るがゆえに、それを忘れがちなのである。
(このあたり、ひとつひとつの用語については正確な引用ではなく、意訳ないし超訳であり、多少脚色もしているが、大意としては大きな間違いはないと思っている。その認識で読んでいただけると幸いだ)

身体というものに少しばかり意識を傾けると、ここに述べられていることはさほど不自然な話には感じられないはずである。

生命の長い歴史のなかで、何億年とかけて培われてきたのは、遺伝子及びその表現形としての身体によって実現された秩序である。

言語や自意識、文字による意思疎通というのは、それこそこの長大なる歴史における「つい最近の話」であって、生き物とは、あらかじめプログラムされたように思考も行動もするようにできている。蟻に自意識はないが、蟻には社会があり、分業があり、生産と消費がある。人間もまた、一日の大部分を無意識に頼っているという意味でこれと本質的な違いはない。

あらゆる生き物が、それに従ってでなければ生きられない様態。それを中国古典の世界では「命」と呼ぶ。「運命」「宿命」の「命」である。

これを相対化するのが「心」である。人間以外の生き物は、命を受けいれ、命のままに生きる、だからこそアンビバレントもなければ自殺も悩みもない。人間だけが、命に対抗し、あらがう心を持ってしまった。あらゆる悩みとはこれ心あるからなのである―――と、こういうわけなのだ。

こうした世界観のうえで、著者は、「論語とは当時、まだまだ新興概念だった”心”の取り扱いをするための方法論だったのだ」という解釈を提示する。

私自身、実学・実業のうえでのたうちまわり、古典や自然科学、社会科学の知見に触れてはものを書くことを通して、ついぞ「組織と秩序」を我がテーマに据えようとしてきた、そのなかで、本書はまさしく雷轟のごとき衝撃を与えてくれたのだった。
いろいろなことを見聞きし、考え、学んできて、だからこそこの書に触れる準備が整ったのだろう、と、思う。

さて、かなり駆け足で前置きをした。

ここからが本題だ。

いや、この初期衝動的な意味において書きたいことは、すでに書いてしまったので、本題ではなく、付録なのかもしれない。

まぁ、それはこの際、どちらでもいい。

仮に上記の世界の捉え方を「心命二元的世界観」とでも呼ぶとすると、この世界観を漫画作品として表現するならば、HUNTERXHUNTER「キメラ=アント編」そのものになるじゃないか、という話である。

蟻の女王、彼女こそが「命」世界の象徴である。言語的思考や自意識によることなく社会を構築し、組織的行動をとる、結果としての種の拡大再生産を行う、その中核的存在=現人神である。
蟻が蟻として生きていく、それだけであれば、世界秩序は何も変更されることがなかった、それがある日突然、言葉を獲得する。そこで生まれる組織的不和。会長とモラウ&ノヴが、序盤戦で蟻の戦力を削ぐシーンは象徴的だ。組織的行動をする蟻と、手前勝手な蟻。蟻たちをこのように分類するのはまさしく「命」的な生き方と「心」的な生き方の隠喩ではないか。
蟻の女王が、古代的な現人神であったとするならば、メルエムは「始皇帝」として描かれるべきところだったはずである。少年漫画としての制約がそうした描写を許さなかったのか、それとも冨樫先生自身が次なる”進化”を経なければそこまで描くことは難しかったのだ、ということなのか。

最後に。

会長がメルエムと戦うときの衣装には「心」の書があるのは、一体これは、偶然とは思えないのである。同じ元ネタから至った演出なのか、それともまったく違う経路から同じ結論に至ったということなのか。
HUNTERXHUNTERという作品が、「人間とはなにか」というテーマに貫かれたものであることを考えれば、きっと後者なのだろうと思う。思うのだけれど、先生が一体どんな本や作品、はたまた映画を取り入れているのか、興味はつきない。

・・・とまぁ、駆け足で書いてみたが、やっぱり、駆け足だ。ひとつひとつの詳細については、後日また補足していくとしたい。

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