バリ山行とサンショウウオの四十九日を読んだアスペルガー(意外と味噌)
台風が来てるのでブラブラと図書館に入ったら文藝春秋があったのでついでに読んでみた考察的なものだと思う。
バリ山行
入りとしてはまぁ予測通りというか主人公が山に行くどうでも良い導入なんだがそこに埋め込まれてるのが山でカップラーメン食ってみたいって自嘲気味なのも笑えるし分かる気もする。だから最初のファッション的な行動原理も納得できるよ、でもよ、出てくる人達の名前にあるメタ要素は意図的じゃなかったら別の意味で天才やろ。
兎に角だ、内容としてはゼネコン、サブコンて言うの?かと思いきや下請けで働く人の話があぁ続くんだなと思いつつ読んでてさ、言わずもがなあれはクソと言うことですよ。山に居ながら延々と仕事の話しばかりしている大人達が余りにダメな人間に思えてくるのは上手い。
そんな中バリ山行、バリエーション登山って言うルート外を踏破する人に思いを馳せる(まあまあ要点)んだけども此処まで書くと前半で言いたいことはそれなりに分かるよな。
あくまで主人公の立ち位置的にはそう言う部分があるのは否めないか。
海外ハイカーが増えて喜んでたのも懐かしいが、山は富士と言うようにふと見やると雲の合間からも姿が変わる事なく分かる、そうゆうのが一番美しいって誰かは言ってたやな。
ただし自分は見たくて憧れてる山の地図を部屋に飾るくらいだが実際に登る人の感覚。多分理解できないんだろうなとゆうのはどうしようも無い壁じゃないかと身体は言ってる。
まあ山でコーヒー"アルコール"を飲みたいだけだけど。ヤマレコに登録する場合アカウント名はノーズフェイスとかつけちゃうんだろなと笑いながらだからあまり本気にはするな。
最後にネタバレにならない結末へのツッコミとしてそれただのアドレナリンやでと経験者が語る。
サンショウウオの四十九日
まずこの作品読んだ人に聞きたいのは結合生双生児について何を感じるかやな。
作品そのものは特殊な状況で生まれた人間を特別なものとして話すかそれとも普通の事と感じながら語るか。その辺りを気にして読み終わるまでにそこまでで終わってるわけもないと言うか終わらせられないやろと。
知らず知らず人の感覚による共感生みたいなものを試しているように読み進めるハメになったわけだがそのどちらでもない答えを作品の中に見つけることが興味が出てきたがそのうちそれすらどうでも良くはなっていく。ええのかこれ。
営みについて考える時に家族を捉えるためとして使うには難しいよなとも此処までしなければ日本人って分かんなくなったのかなとか故人を思いつつも読み進んでいて、ふと別件だが人の匂いだけはまだ覚えているんだなと自らの最近起きた出来事にちょっと暖かくはなったが余り良い心地ではない事もありよろしくない。嗅覚って一番記憶に残るらしいしな、忘れたくても忘れられない物とか本当にいい景色だとか。
基本的に話をする時に周辺の生き物はその事に対して詭弁か言い訳をしているものだと自らを含めて理解しているのはかなり昔からあったが安定剤を飲んだ後に読んでいてもこの有様なので余程ろくでもないと見える。
このタイミングでこの作品を読んでしまったのはあんま芳しくないとアスペ的な原理で理解してるんだけどどうなるか。別段だからどうすると言うことでもないが個人的には(他人事として)こう言う作品が再び選ばれるというのは無駄な理由があっては良くないなとは思っている。
認識論としての白黒思考では人の力を過信するなと記録が騒がしくなってしまったよと、それで結びとするやで。