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【キッチンカー物語①】~原体験~

※『URBAN RESEARCH Media』にて2021年05月21日に掲載された内容を、ここに残す。


ご無沙汰しております。吉本です。お元気ですか?私はといえばなんとかヘラついて生きております。
今回は一つ、お伝えしたいことがありまして……

『キッチンカー、始めます!』


■種火がついた

一年ほど前から頭の片隅にはずっとあった。
ポップアップ(期間限定)という形でお店を間借りし、好きな料理や好きな酒を提供してきた。京都・大阪・東京は全て楽しかったし、札幌や福岡やホーチミンでやろうという話もあった。今でも諦めてはいない。

それでもこの一年で、世界中で食べることや呑むことの場がガラリと変わってしまった。

今でも飲食店が好きな気持ちは変わってない。むしろ会えない恋人に会いたいくらい、以前よりその瞬間を待ち望んでいるかもしれない。
どうやら僕は「ずっと料理だけしていたい」というタイプじゃないみたいで、その先にある尽きないおしゃべりとか、お酒の力とか、暖色の空間とか、打ち溶けていく過程とか、そんなのがたまらなく好き。

去年末からキッチンカーの説明会を何社か受けたが、どうもピンと来なかった。まだ「あの人しかいない」という過去への未練がタラタラだったんだと思う。

それでも今年の二月に受けたセミナーがまあまあ良くて、なのに腰が完全に上がるまでにはいかなくて。やっと視線がそっちに向くようになった程度。
若い担当者が意気揚々と話すプレゼンテーションは理路整然とされており、納得のいく内容だった。ただ一点不思議だったのが、そこに出てきた実施例がそれまで僕がぼんやりと描いていたイメージとは、まったく異なっていた。

でもそれは、決して自分にとってマイナスの意味ではなくて、「ということは、僕がいま持っている理想の世界像って、もしかしてまだ誰もやっていないの?」と。

——人と同じことしてて何が楽しい?——

ずっと人と違ったことを追い求めてきた人生だった。過去、意図的にそうすることで、生きてる感触を確かめようとしていた。
想えばその一つ一つが、“摩擦”があるからこそつく赤い『種火』だった。

翌朝。

薄暗い世の中を目にして心が冷めかけた。
……まだ誰にも言ってないんだし、ここで辞めたっていいじゃないか……
また過去に引きずられそうになる。

その時、東京の友人からLINEが来た。
「ねえねえ、Amazonプライムのドキュメント番組観てたらアンタに似た人が出てきたよ!なんか世界中のシェフを紹介する番組で、キッチンカーみたいなのに乗ってるんだけどーー」[画像添付]

笑った。

タブレットの静止画をそのままスマホで撮って送ってきたもんだから、荒くて荒くて。

でもそこには確かに、アジア系の細身の金髪男性が、ポップなキャップを被り、エプロンをし、フレームの大きな眼鏡をかけ、何をキリっと見つめる眼差しで立っていた。
「そっか。自分もお店に立っている時はこんな感じなのか」と自身の姿と照らし合わせながら、間違い探しをしてみた。

アゴヒゲかクチヒゲか。あと、キッチンカーがあるかないかくらい……

テロップにはこう書いてあった。
——食事は人を結びつける——

そうだ!別にカタチになんて拘らなくていいんだ!
何を僕はこだわっていたんだ?!そんな偉そうな料理人でもないくせに。
もう一度、食の可能性にかけてみようよ。
「アンタのおかげで決めたよ!キッチンカーやるわ!5年はやりたいね。今、38歳だから5年経ったら43歳。うまくいけば男の厄年(42)もこれで乗り越えられる!(笑)ありがとう!」
「ええ~、なにそれ!?よくわからんけど楽しそう!私も乗りたい!!」

決めた瞬間、同乗者を一人獲得できた。

■助走

料理人が死ぬほど言われる事のひとつ。「将来はお店を持つんですよね?」
なぜみんなそんなにお店を持つことにこだわるのだろう……ずっと疑問だった。

元々ポップアップを始めたのも『持たざる経営』を試してみたかったから。
無論「自分の城を持つ」ことは大きなロマンだし先人だって沢山いる。でもなぜ人にその職業人としての“ゴール”(最終形態)を勝手に決め付けられなきゃいけないのか甚だ疑問だった。

サラリーマンに「将来はこの会社の社長になりたいんですね」と聞くのはナンセンス。公務員に「この街の市長になりたいんですね」と聞くのも的を得ていない。結婚した女性に「子供はいつかしら」なんて言うのはヘドが出るほど前時代的。
じゃあ料理人に対する「お店を持ちたいんですね」のギモンからまた始めてみよう。

別にお店なんか持たなくてもいい。料理を通じて人を楽しませられたらその時点でゴールテープで、毎日がそんなトラック一周マラソン。手段も過程もどうでもいい。同じことの繰り返しのようで、日々違ってみえる季節や仲間。
ポップアップだって自分の店じゃないし、それでもこんなに充実して、新しい出会いだって沢山あった。発見も、悔しさも辛さも、嬉しさも。その対価としてのお金だってあった。

——お店がなくても料理はできる——

もう助走してたじゃないの、自分。


■悲しい現実

3月にポップアップで東京を訪れた。緊急事態下でも僕を応援している人達に沢山会えた。

歌舞伎町のアパホテルに泊まった。たった10年前にはギラギラとして見えたその街も、今は全く変わった。

明日には京都に帰るという最終日。用事を済ませ夕方にホテルに帰る途中、都心部とはいえ閑散としていた。「お店が元気なけりゃこんなもんか」と思いながら部屋で荷物をまとめ、ビールでも買いに行こうかと外へと出た瞬間、20時の飲食店閉店を迎えた途端に路上へあふれ出す若者。コンビニのレジだって若い!若い!若い!

それでも僕に嫌悪感は無かった。

若者にはエネルギーが有り余っていて当然。僕だってハタチ前後の頃は友達と散々飲んで、騒いで、迷惑かけまくった。それでこそ若者。家で一人で病んでいるよりは全然いい。

ただ、そこには見たくないものが沢山あった。青白い蛍光灯の下で、彼らが手にしていたもの。

パウチされた工業製品。焼き鳥やフライドチキンは生まれてから焼かれるまで一切の愛情を受けずにきた鶏——のようなもの。

この子達が決して悪いわけじゃない。大人達が勝手に奪っているだけなんだ。

▷誰かが作ってくれたポテサラ!

▷誰かが焼いてくれたねぎま!

▷誰かが入れてくれた生ビール!

そんな機会を奪い続けていては、この子達に申し訳ない。

大人達が子供の心を枯らしている。


■木の芽


小学生の頃。家の庭に山椒が生えていた。
夕飯時になると母が「木の芽とってきて」と言い、僕はサンダルを履き、夕焼けの下、なるべく柔らかそうな新芽を探す。

スーパーで買ってきた卵豆腐。容器を逆さにしプリンのようにパチンと開けお皿に盛る。そこへ摘んできた木の芽を乗せるのが僕の仕事。
なんの変哲もないその薄黄色は、張り絵のようにペタンと緑を得た瞬間、みるみる御馳走になっていく。付属のだしをかけ、まるで自分が作ったかのように、晩酌を待つ父に持っていく。


自分も食卓に座り、自分で作ったその卵豆腐をまずは愛でる。次に木の芽を手に取り、その葉をまるで花びらを数え恋みくじをする少女のように一枚一枚はがしては、再び卵豆腐の上に丁寧に散らす。
母に「あんまり触るとばっちいわよ」と言われながらも、僕はスプーン一口一口に卵豆腐と山椒のマリアージュが欲しかったのだ……!(だからわざわざちぎっていた)

——今でも甦る食卓の思い出——

若者のひとりでも多くにそんな山椒の底力を知ってほしい。木の芽一枚で、食卓ってすごい御馳走になるんだから……!


■いい世界


僕はドイツに住んでいた時に料理の世界に入ろうと決めた。
それまで続けていたサラリーマンを28歳で突然辞め、家出同然で向かったドイツ。

自分探しも三十路に差し掛かろうとしていた時、誰にも相談せず、雷の衝撃のように「日本料理やる」と決めた。まったく当時からムチャクチャ。(笑)
ずっと「日本っぽいこと」をやりたいと思ってはいたけれど、それが何なのか見つけられずモンモンとした結果、「世界に通用する仕事」として料理の世界をみつけた。

すぐパソコンに向かい遠い日本に住む両親に長文メールを作成した。
話すとキャッチボールをしなければいけないのが億劫なので、僕はワガママにも一方的な文章を送った。とはいえ、そこにロジックなんてほぼ無くて、「やってみたいことが見つかった!本日は大安吉日也!」みたいな内容だったと思う。(笑)

意外にも母からの返信は直ぐだった。
——いい世界を選びました。それで、私はあなたに何ができますか?——
それを見て、いてもたってもいられなくなった。


「僕もこの世界は絶対にいい世界だと思っている!大阪の調理師学校に行こうと思っているから資料をスグ送ってほしい!営業の時はどんなプランを立てても結局迷いながらやってたけど、食べることや飲むことを通じて楽しい雰囲気を作ることができれば、それは誰に咎められることのない『絶対的な正解』なんだと思う!他人がどう言おうと関係ない!相手がヤクザでもアラブの王様でも、その人が『楽しい!』と思える空間を作れたらきっとこんな世界、他にない!」
まったく変なメールだった。(笑)


そんな突飛なことから始まった世界だけど、根本は今も全然変わってないし、やっぱり食べて飲んで、人と楽しい話がしたい。


そんな、僕の世界の継続に、どうかお付き合い宜しく願いします。

~つづく~


クスっと笑えたら100円!(笑)そんなおみくじみたいな言霊を発信していけたらと思っています。サポートいつでもお待ちしております。