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『無傷』というコンプレックス


深い不幸に襲われた事が無い。

愛していた人が急に死んだとか、家を失ったとか、信用していた人に裏切られたとか。そういった前が見えなくなるような衝撃的な出来事に直面した事が無い。それは本来いい事であり、人はそれを『幸福』と呼んでいるのだと思う。
しかし、僕はその幸福を心から歓迎することが出来ない。

僕を傷つける出来事というのはいくらでもあって、そうした事態に直面する度、自分を『不幸せ』だとか『ツイてない』とか自嘲することで何とか心の平穏を保ってきた。しかし、そんな自身の姿を俯瞰で見た時、
『そんな事で何一丁前に悩んでるんだよ』
と、水を差す声が頭の中で響く。


僕の悩み。トラウマ。心の傷。そして感動すらも、他の誰かの心を動かすほどのエネルギーを持っていないのではないか。
低レベルな『幸福』と『不幸』の間で一喜一憂している僕は、どうしようもなく凡庸で、しょうもない人間なのではないか。
今まで築き上げてきた価値観を180度ひっくり返すような強烈な出来事に直面したことが無い僕の言葉に、他の誰かの価値観をひっくり返す力があるとは到底考えられない。
そんな歪なコンプレックスが、こうして文章を書いたり、創作をしたりしている最中に後ろ指をさしてくる。
不幸や幸福を客観的に測る尺度が無い以上、そんな事を考えるのが不毛であるということは分かっているのだが……。


人の個性は経験の特異性で決まる。タレントがテレビで披露する若い頃の苦労話や、失敗談、衝撃的な出来事。にわかに信じがたいそれらの体験が、彼等の価値の中核を担っている。悩みや傷、コンプレックスを行動の動機とすることで彼等は成功した。
『今思い返せばいい思い出です。』
『あの経験も無駄じゃなかった。』
『こうして笑い話にできるならよかった。』
そんな綺麗事を、彼等は一点の曇りも無く言うことが出来る。
それが少し羨ましい。


人が傷つき、悲しむ様を見て、その気持ちを分かった気でいた。
人が失敗や不幸から立ち直る話を聞いて、自分も成長した気でいた。
人が感動し、涙を流す舞台の中に、自分も登場した気でいた。

それは全て、ただの自惚れだ。
人に誇れるような経歴も、人に見せることが出来ないような失態も持たない無色透明な僕は、無色ゆえに肥大化した自己像に気づかぬまま大人になっていた。
そうして大人になった僕は、『彼等のようにかけがえの無い人間になりたい』と思うようになった。しかし、自分の人生を振り返った時、その思いを肯定してくれる経験はどこにも転がっていなかった。


自慢できずとも、自虐できるような体験を求めている。
良くも悪くも、異常でありたい。
人の模倣や共感だけでは手に入れることが出来ない絶対的な経験を、僕は渇望しているのだ。

幸せだろうが、不幸せであろうが、個性的に生きたいと思う。
『自分らしく生きよう!!』なんてイカした言葉は、それこそ自分らしく無いけれど。

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