肉を焼く

冷凍庫を覗いたら買った覚えのない肉が眠っていた。恐らく、親が置いて行ったのだろう。普段は薄切りの肉を食っているので、久々に見た肉塊の存在感に圧倒された。気を抜くと平伏してしまいそうである。3割引のシールも、なんだか勲章に見えてきた。
完全に凍り付き、石のように固くなったそれを、僕はリビング中央の机まで移動させた。日光が当たり、肉が微かに輝く。肉が自分を立派に見せようと演出しているようだった。文字通りの霜降り肉である。
夕飯は、余ったジャガイモを消費するために肉じゃがでも作ろうかと思っていたが気が変わった。ジャガイモは付け合わせに使おう。今日はステーキだ。

半日放置して何とか自然解凍した。
霜がかかって見えなかったが、よく見ると消費期限を1ヶ月以上過ぎていた。衝撃!!解凍する前より何だか縮んでいる気もする。あの威圧感はもうどこにも無い。3割引のシールも、何だか烙印に見えてきた。
しかし、当の本人は堂々としたものである。『新しいものが次々に産み出されている現代において、古いということは一種の付加価値であると言えないだろうか??』そんな事を言っている気がする。
ここまで開き直られると掛ける言葉も見つからないので塩をかけて(激ウマジョーク)水気を取った。『美味しく焼いてくれよ!!』……何だか憎めない奴だ。肉だk(略)


大学生になり、親が家を出ていったことで、自分で料理をする機会が増えた。一人暮らしを始めた若者は往々にして家事の苛酷さに疲弊し、親のありがたみを知る。「今まで通り楽をしたい」という不純な気持ちから湧き出て来る「親を想う気持ち」は、親からしたら嬉しいモノなのだろうか。
僕は生憎、兄と二人で暮らすことになったので、家事に対して特別な不満や負担は感じなかった。(兄に対する不満はあったが、お互い様だ。)しかし、母は不出来な二人息子が心配なようで、3週間に一回くらいの頻度で帰ってきては、掃除やら、買い出しやらをしてくれた。「私が居ないとダメね。」そう言われている気がした。「信頼されてないなぁ」と思ったが、何を聞いても「あぁ」とか「大丈夫」としか返さない僕らにも非があるのだろう。

料理に楽しさを見出すことに成功した僕は、鉄のフライパンを育てていた。ステーキというストライクゾーンど真ん中の好球にこいつを利用しない手はなかった。
表面の水分を拭い、片面に焼き色を付ける。反対側は弱火で。5分ほど焼いたらアルミホイルで包み、余熱でじっくり火を通す。
フライパンやアルミホイルに残った肉汁でソースを作り、付け合わせとして、ボイルした人参とジャガイモに焼き目をつけた。彩りも十分。不味い訳がない。


肉なんて何も考えず雑に焼いて、「エバラ黄金のタレ」をかけておけば十分旨い。
けど、手間をかけて丁寧に焼いたステーキには、その良さがある。肉は何も言ってくれないが、彼にとって最適な温度を常に汲み取ってあげる事が美味いステーキを焼くコツだ。

この肉は、親が買ってきた肉だ。感謝も文句も言わない僕たちを気にかけて買ってきてくれた肉だ。
「ありがとう」とか、「助かる」とか、もっと言えばよかったかな。甘えたり頼ったりするのが下手な僕たちの世話は、退屈なうえ手のかかる大変な仕事だっただろう。

今度帰ってきたら美味いステーキを焼いてあげようか。親孝行を気取るには足りないが、いい機会かもしれない。
世話を焼いて育てた息子が、台所を占領し肉を焼く姿を見て、母が妬かなければいいが。

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