『シャーロックホームズの凱旋』ミリ知らレビュー
初めに、お詫びしておかねばならない。
私は本書のプロローグを約3ページだけ読んでいる。つまり厳密に言うならば、この文章はミリ知らではない。ミリ知りである。
しかし読者諸賢におかれては、冒頭3ページを読んだごときで登美彦氏の深遠な世界観を語るなどまさにおこがましきと知れ、夜郎自大、呉越同舟、焼肉定食、木を見て森を見ず、などなど熱き拳を振り上げんばかりの勢いであろうことだから、あえてミリ知らを名乗らせていただく。
みなさまも、たかだか3ページを読んだごときで作品の本質を語るなど、そんな人間であってはいけない。ゆめゆめ忘れることのなきように。
性懲りもなく登美彦氏は新刊を書いているらしい。万城目学直木賞受賞作、と金色に輝く帯をまかれた平積み作品の一段上に本書を見かけた私はなんのイヤガラセかと思った。一体どこで差がついたのか。かつては四条河原町でええじゃないかと登美彦氏が踊る一方で、鴨川でホルモーと万城目氏が叫んでいた二人である。私はもうずいぶん前に、未完の小説について書かれた未完の小説、という美しさのあった連載作品『熱帯』を完成させた時点で、登美彦氏はもうダメだと思っていた。過去の遺産にすがり出し、あまつさえ、汚しちゃったら、作家の命はないも同じだ。果たして続いて世に出た『四畳半タイムマシンブルース』も、登美彦氏の名著『四畳半神話大系』と名作『サマータイムマシンブルース』にタダ乗りした見るも無残な悪書であり、もちろん私はそんな作品読んじゃいないが(つまり面白いのかもしれませんよ)、『ピレネーの城』もとい『太陽の塔』で語られた魂の高潔さを失くしてしまったのか登美彦氏、君よ、今も屹立しているかと、心の中で呼びかけたりしていた。
しかし、『シャーロック・ホームズの凱旋』である。いま本屋で最も売れている作品。10万部。とか、いまいち人気度の図れない指標は苦し紛れの帯である。くすんだ茶色のその帯は、黄金の直木賞に比べ、いささか自信なさげである。しかし、シャーロック・ホームズだ。心惹かれる。相変わらず本屋さんに人気なのは『ペンギン・ハイウェイ』から変わらない。そうして手に取ってみれば、おや、ワトソンとホームズが現代京都に蘇り、トコロ狭しと愉快に冒険する話のようだ。おのれ編集者。今度はベネディクト・カンバーバッチにタダ乗りかと、ページをめくった私は再び、おやと思った。
主人公たるジョン・H・ワトソン博士は、傲岸不遜にこうのたまう。一体だれがシャーロック・ホームズを名探偵たらしてめているのか。何を隠そう、この私だと。彼の華々しき冒険譚を、私が世に知らしめている。私があえて阿呆を演じることで、彼の叡智はより一層の輝きを放つ。しかし、弱った。そんなシャーロック・ホームズの、知の泉が今、涸れ果てた。
私にはなんの話かすぐに分かった。
『夜は短し歩けよ乙女』の酒気纏う華やかさに、かつて私は魅了された。それから、『四畳半神話大系』の変態的緻密さに涙し、『太陽の塔』のあまりにも上品なストーカー行為に心震わせ、きつねの話につままれ、色鮮やかな宵山を二晩巡って迷い、ペンギンとはおねえさんのおっぱいの記憶しかないがなにか暖かな気持ちになり、恋文の技術に結実された彼の手腕に嘆息した。たぬきの家族は楽しげであったが二作目を書いたあたりでおやと思い、恋人の存在を証明する男にふーんと言い、ぽんぽこ仮面には閉口し、蘇った密林をさまよう気力は私になく、そうして、いつしか彼の冒険譚を手にとることをやめてしまった。
この小説が誰について語られた本なのか。蘇るのは、ベネディクト・カンバーバッチでもなければ、実はシャーロック・ホームズでもない。
才能の尽き果てた男が、京都に凱旋する。
登美彦氏のことだから、きっと華々しくはいかぬのだろう。自家中毒になりながら、這いずりまわっているかもしれない。だからこそ、いまいちど、私は一切の高望みを捨てて、煌びやかでふわふわとして、雑然として、どこか優しく孤独を包み込むような、京都に旅してみようと思う。
願わくば、彼に声援を。
みなさまも、追って便りがなければそういうことだと思ってください。