『あくてえ』 山下紘加
3人家族
物語は主人公「ゆめ」、ゆめの母親「きいちゃん」、きいちゃんの元夫の母「ばばあ」を中心に進む。最初は孫と「あくてえ(悪口や悪態を指す)」ばかり吐くばばあの介護の話かと思ったが、奇妙なのはきいちゃんがばばあの実の娘ではない点である。嫌味なばばあ、喧嘩するゆめ、仲裁に入るきいちゃんの日常。3人の生活が始まったのは様々な要因が組み合わさったからだった。
その1、ゆめの病気
夫婦はゆめが高校生の頃に離婚。父親が他所に家庭を作ったからである。きいちゃんが「おばあちゃんには感謝してるんだ。……すごく感謝してるの(p.177)」と語るのは、小児喘息で苦しむゆめの面倒をみてもらった過去に所以する。「-ばばあが故郷の山梨から出てきたことも、その土地で生まれ、人生の半分以上をそこで過ごした人が、故郷を離れるということが、その覚悟が、つらさが、あたしには理解できない(p.178)」きいちゃんはばばあに恩義を感じているが当の本人に記憶はない。ばばあ本人は作中一度もゆめに「あんたのために山梨からでてきたのに」だとか故郷への郷愁を恨みがましく語ることはない。ばばあの性格を考えれば、その切り札を使ったって良いはずなのだが。ばばあの無言がきいちゃんと彼女の「感謝される」「感謝する」関係の成立を物語る。
その2、ばばあの逃亡。
3年ほど前、ばばあは父親が再婚した家庭へ行く。だが1ヶ月と持たず、ゆめ達の家へ逃げ帰ってくる。一駅分靴も履かずに突然帰ってきたのだった。
「あたしゃ、やんなっちまっただ。なんもかんもやんなっちまっただ。たのまあ沙織さん、またここに置いてくれちゃあ―前みたいに、一緒にここにいさせてくりょう。いいら?(p.189)」
ばばあの方言のせいだろうか、切なる思いがひしひしと伝わってくる。ばばあの短かった新生活は「出るわ出るわ悪口のオンパレード(p.190)」により語られる。その様子は至極一般的であり、あなたのような人に普通の人はそう接するでしょうね、と思わずにいられない。だがばばあは自分が悪いなどと少しも思わないし、きいちゃんも責めない。
「お義母さんいないと、あんまりご飯も作る気になれなくて。お義母さんがなんでも美味しい美味しいって食べてくれるから作り甲斐があるんですよ(p.190)」
ばばあときいちゃんは共依存的な関係を構築していく。ばばあの壮絶な逃亡、そしてもはや他人であるきいちゃんが再度面倒を見ることにゆめの父は「ゆめのとこにいるなら、安心だな(p.190)」とだけ言い、ばばあを放棄する。
外の人間、父
ばばあが山梨からやってきたのはゆめのため。息子の再婚に伴い新しい家庭へいくも居心地が悪く戻ってきたから。3人が生活することになった主な要因はこちらの2つである。だが本来ばばあの息子でありゆめの父がもっと能動的に登場してきても良さそうなものである。次に父親について見ていきたい。父親はばばあの語りによってはじめて登場する。デイサービスで他の人がしていた指輪の話をばばあがしたとき。ばばあは指輪がしたい。けれど安全上の理由できいちゃんが没収している。
「いいわ、今度裕一に言って新しいの買ってもろうだ(p.167)」
ばばあの発言にゆめはこう語る。
「不倫の末に家を出て新しい家庭を作った元夫の名前など、聞きたくもないはずなのに、ばばあはきいちゃんの前で堂々と息子の名前を言ってのける。あたしの父親は要領の良い人間で、ばばあの前ではおだてたり優しい言葉をかけ、実現する気のないことでも平気で言うので、アホなばばあはすぐ騙されてその気になる(p.167)」
裕一はばばあを騙しても罪悪感も持たない人間であるようだ。彼はばばあが倒れたことにより物語へ実際に登場する。しかし頼りがいがなく的外れな発言ばかりしゆめを乱す。
「夕飯に、なんか変なもんでも食わせたんじゃないのか(p.181)」
きいちゃんとゆめの日常に強いられている苦労も知らず呑気なものである。ゆめは言い返す。「一度火がつくと、頭の血が上ると、止められなかった。(p.181)」「ヒステリックな親みたい」なゆめと「親の説教に耐えている子供みたい」な裕一。裕一はゆめの言葉を受け止めない。トイレへ席を立ち戻ってくるとまるで初めから何の問題もなかったかのようにふるまう。ゆめは喫茶店でもあくてえを続ける。
「ばかが、あほが、うるせえんだ、へらへらすんなよ、くそじじいが。(p.185)」裕一はあくてえも受け流し代わりに生活費を渡す。今月少ないことを詫びるが、ゆめは裕一がお金に困っていないことを知っている。
「息子を高い学習塾とサッカー教室に通わせて、好物の高い地酒をお取り寄せする余裕も、沖縄旅行を満喫するお金もあるのに?(p.185)」
裕一は彼女たちより自分と自分の家族を優先させる。
「いつも悪いな、ばあちゃんのことで迷惑かけて。ゆめにも、沙織にも (p.185) 」裕一はゆめの指摘通り要領の良い人間であるからこの言葉が本当かは分からない。けれどその場を取り繕う技術は身に着けている。ゆめには一応言うけれどきいちゃんには言わない点も本意か疑わしいし、その思いを生活費に反映させてくれたって良いはずである。
次に裕一が登場するのはばばあの2度目の入院のとき。ばばあのゆめと裕一に対する態度は明らかに違う。ゆめには「暇な会社だなぁ。やるこんねえだか?どんな会社だか知らんけんど、こんなとこ来てプラプラしてたら、すぐにクビになっちもうぞ(p.207)」、裕一には「裕一は仕事が忙しいから、わざわざこんなとこまでこなんでもよかっただ (p.209) 」という。その様子は「あたしやきいちゃんといる時より、ずっと幸せそうだった。(p.209)」。裕一は普段面倒も見ないくせに、たまに顔を見せるだけで喜ばれる。しかし裕一の本心は「相手は年よりなんだから、適当にあしらっときゃいいんだよ。いちいち本気にしてると疲れるぞ (p.209) 」という言葉から分かる。
「つめたい声だった。急に、親父との間に壁を感じる。親父はあたしにとって、いまや外の人間だった。(p.210)」
裕一の言葉は上っ面で適当で何の気持ちもこもってない。気休めに優しい言葉をかけるだけ。ばばあは歓喜するのだからそれで良いのかもしれないが、ゆめにとっては面白くない。
次の裕一の登場はこう語られる。
「親父と連絡がつかなくなったのは、ばばあが退院してひと月ほど経った頃だった(p.214)」
生活費の振り込みがなくなり1カ月待っても状況は変わらなかった。ゆめは裕一のFacebookの投稿を辿り、サッカーイベントに息子の付き添いで現れるだろうと予想する。ゆめは1人で裕一と対峙する。
「悪いな。仕事でバタバタしてたんだよ。落ち着いたら連絡するつもりでいた(p.218)」
仕事でバタバタしていたら生活費の振り込みが滞ったり連絡がつかなくても許されるのだろうか。息子のイベントには付き添うのに娘のゆめには連絡さえしない。それにこんな連絡もつかないことは初めてだったのだ。ゆめは言う。
「見苦しいんだよ、生き方が。ださい、みっともない、みにくい(p.218)」
泣きながら声を張り父親と対話しようとする。裕一はこう告げる。
「ねえんだわ。渡したくても」
「......借金があって。嫁さんにはまだ言えてない。……言えなくて。航輝がもうちょっと大きくなったら言えるんだけどな。(p.219)」
今の妻子が知らない事実をゆめにだけ打ち明けたようだ。息子が大きくなっても残るだろうことから相当な額であると考えられる。ゆめはそれ以上追及しなかった。「何も言わずに立ち上がり、元来た道を引き返した。これで完全に親父からの生活費は断たれたにも拘らず、なぜか清々しかった。期待しないということがあたしの気持ちを軽くさせたのだ。(p.219)」
以降も裕一は送金を止める。ゆめは派遣先の仕事に加えてアルバイトも始め家計を支えようとする。しかし私の違和感がすんなり読み進めなくする。裕一の言うことは本当だろうか。借金があるのに息子のサッカー教室も辞めない。それにこれまでの裕一の人間性を考えると、いかにも彼がつきそうな嘘ではないか。これだけで裕一はゆめの追及をそらしたし支払いから解放される。そもそも養育費さえ元々支払っていない。しかし。たとえきいちゃんが養育費の請求を放棄したとしても後から請求でき裕一には支払う義務がある。養育費を払う払わないは個人の意思があったとしても、法律上は自分の生活水準を落としてでも支払う必要があるとされる。よって裕一に借金があるからと言って支払う義務がなくなるわけではない。それにばばあの資産はどのように管理されているのだろう。ばばあの年金はきいちゃんが預かっているようだが残っているのだろうか。何らかの資産があるかもしれないが、それをきいちゃんとゆめは知っているのだろうか。さらに仮に資産があってもばばあが死んだ場合、彼女らに相続の権利はなく裕一のものとなることも。ゆめの諦めはどんな意味だろう。借金があって払えない困窮に対する諦めなのか、そんな稚拙な嘘をついてでも逃げようとする性格への諦めか。
私はふと、ゆめの語りの信用性に疑問を持ち始める。
ゆめの幼稚さ
ばばあのキャラクターのインパクトが強いため、これまでゆめの言っていることはまともに思えていた。しかし考えてみると疑問に思う場面がいくつかある。主にゆめの彼氏である渉との会話に表れる。まずクリスマスイブにデートででかけるシーン。ゆめはいつも通りばばあと一悶着を起こした後デートへ出かける。
「不愉快な気分だった。しかしそれは、渉が渋滞にはまり、到着時間が二時間遅れたせいでも、そのせいで行きたかったランチの予約までキャンセルせざるを得なくなり、予定が狂ったせいでもない(p.193)」
渉は何も知らないので自分のせいだと思い込む。が、渉がそう思うのは当然ではないだろうか。ゆめは説明を億劫に感じ、原因を渉のせいだという。
「彼の見当違いで的外れな一言が余計にあたしの怒りを、苛立ちを、増幅させるのだ(p.193)」
渉は渋滞はしょうがないと続ける。ゆめは渉の不機嫌の理由を突き詰めたいやり取りを「尋問」と呼ぶ。そもそもゆめは迎えに来てくれたお礼も言わないし渋滞が大変だったね等と労ったりもしない。そのうえ不機嫌さを前面に出して助手席に座るのは幼稚であろう。渉は知りたい。ゆめは説明したくない。そんな噛み合わなさは事態を更に悪化させる。ゆめはドアポケットにマスクを見つける。渉は男友達のものだというが、いつ乗ったのかは名言できない。ゆめの追及に応える形で友達を途中まで乗せてきたと白状する。渋滞と友達を送ったせいで時間に遅れたとするが弁明は何故かたどたどしい。
「翔太、風邪ひいてんの?」
「え?」
「マスクしてたんでしょ?風邪ひいてるの?(p,194)」
ゆめの話に合わせるかのように渉はそれらしい話をするも「これからあたしが乗るって時に、風邪ひいてる奴、車に乗せるなよ。どういう神経してんの?(p.194)」と怒られて終わる。ゆめのこの怒りっぷりである。ゆめも会ったことのある彼氏の友人が風邪をひいていても心配はしない。そんな人間を乗せるなと憤るが、渉が誰を助手席に乗せようが彼の自由である。もしも男友達でない人を乗せていたとしても。ゆめは到着まで眠る。起きると少し機嫌を直している。これまでのところ、ゆめが渉と何か楽しい話をしている様子はない。部屋に入ってもゆめの気の利かなさが分かる。
「背後で、脱いだコートをかけながら、渉が不服を漏らす。」
「慌てたように渉は言って、あたしが腕にかけていたコートをとってハンガーにかける。あたしは黙ってトイレに行きー(p.196)」
彼は自分のコートを自分でかけたうえ、ゆめのコートもかけてあげる。しかしゆめはお礼を言わない。食事をしながら渉は仕事の愚痴をこぼす。
「なんか俺、イメージしてたのと違ったなあ。せっかくでかい企業に就職できたのに、高卒がやるような仕事やらされてるんだもん(p.198)」
ゆめも高卒のはずなので渉の発言は失礼だといえるだろう。ゆめはこう分析する。「不満や愚痴に混ざって、彼の根底にある偏見も顔を覗かせる。この男はこういう男だった、と思いながら(p.198)」食事を続け、「現状に納得がいかず、人の学歴や職業を卑下しなければ自分のプライドを保てない可哀想な奴だったと。あたしは苛立ちを通り越して同情すら覚える。(p.198)」
渉がどういう男だろうとどうでもいいが、付き合う相手は自分で決められるはずだ。ゆめは自分で選んでこの男と付き合っているのに。そしてゆめは刺身を食べながら先日きいちゃんと食べたスーパーの刺身の話をする。渉はこう返す。
「でも、所詮はスーパーだろ?こういうとこで出てくるような鮮度が良い刺身とは違うだろ?だいたい、スーパーの刺身って生臭いイメージあるな(p.198)」
この言葉から渉は普段スーパーの刺身を食べないことが窺える。ゆめは久しぶりに食べたら全然生臭くなかったと言うが、それが値引きシールの貼られたものだったとは言わない。渉が普段食べないのは生臭いイメージがあるから。ゆめが普段食べないのは値引きシールが貼られていなければ気軽に手が届かないからではないだろうか。ゆめにとってあれはご馳走の一つであった。
「いや、わかるよ?わかる、美味しいのはさ。でも価格なりの味だよね。値段のことなんてわざわざ言いたくないけど、この店、結構いい値段するんだぜ?クリスマスだから奮発したんだけど。それを、その辺のスーパーで売ってるのと一緒にされるのはなんだかなあ(p.199)」
渉の言うことはそこまで間違っていない。ゆめは先ほど「どういう神経してんの?」と怒っていたが、渉は「なんだかなあ」と言葉を濁す。感情をむき出しにすることが幼稚さに見える部分もある。反対にオブラートに包むことが大人な対応にも見える。せっかくクリスマスに良いお店で高級な刺身を食べているのにスーパーの刺身の話をするのは適していない。その話を否定しているのではなく、この場でふさわしくないという点にゆめは気づかない。ゆめは渉の気持ちを推察する。
「宿泊代も飲食代も俺が出しているんだから、おまえはただ美味しい美味しいこんな美味しいの食べたことないと笑って俺を喜ばせておけばいいんだよー。(p.199)」
ゆめは刺身を比較したつもりは微塵もないらしいが、別にこの場で言わなくたって良い話である。さらに渉がそんな男だと思っていて自分はそれに沿えないのであるなら、何故ゆめは渉と付き合っているのだろう。渉は「何か怒ってる?」と何度も聞くが、ゆめは答えない。またである。ゆめは不機嫌さを前面にだして、相手が「怒ってる?」だとか尋ねなければいけない空気をだすのに、答えはださない。拗ねた子供のように見える。
次に渉が登場するのはゆめが会社の仕事とカフェのアルバイトを掛け持ちし始めてからである。
「ある日、バイトが終わった後、電話で渉を呼び出した。ーこれまでも、何か鬱々とした気持ちで家に帰りたくない時、発作的に気分が沈むと、そんな風に急に連絡を入れては一緒に時間を潰すことに付き合わせてきた。ー深夜でも、翌日仕事で朝が早くても、電話をした数分後には、車を飛ばしてやってくる。(p.220)」
渉は今までゆめの気まぐれな呼び出しに応じてきたようだ。では何故あのクリスマスの日は2時間も遅刻してしまったのだろう。ゆめは渉がいないと気晴らしもできない。遠くへ行きたいと言うゆめだったが渉は近くをぐるぐる回る。渉は早く帰って寝た方が良いと言う。ゆめを思っての言葉なのか、気晴らしに付き合うのが嫌だったのか。ゆめは遠くへドライブしたいだけだったのに結局ホテルへ向かう。そこでまた事件は起こる。渉が避妊に失敗したかもしれないと言うのだ。
「だから、ラブホのゴム使うなって言ってんのに(p.221)」
以前から持ち込んだゴムを使うよう頼んでいたのに渉は買う手間を億劫がり、ゆめもそれを受け入れていた。
「あんたの惰性が、こういう結果招くんじゃん!(p.221)」ゆめはこう言った後、渉に枕を投げつける。暴力。続けて渉に電気をつけるよう指図する。ゆめの心はばばあときいちゃんのことでいっぱいになる。アフターピルの予約をとり渉にも一緒にくるよう言う。かかった代金は渉のお金で支払われた。その受け渡しは「とりあえず一万円と言って紙幣を渡され、足りないかもと言ったらもう一万円上乗せされ、黙っていると財布をがばっと開いて有り金全部渡してきた(p.222)」という方法である。ここでもゆめは「黙る」ことにより解決へ繋ぐ。いくら欲しいとも言わず、お礼も言わない。処方後に渉は「とりあえず安心したね?」」と言うが、ゆめは「生理来るまでは安心とは言い切れない」と突き放す。果たして避妊の方法とは男性がラブホのゴムを使わずに自分で用意したものを使う、という一択なのであろうか。ゆめが買ったって良いしピルを飲んだっていい。他にも方法はあるだろう。加えて避妊に百パーセントの保証はないのだから、この場合渉だけに責任があるとも言い切れない。ゆめはいっぱいいっぱいで渉のせいで自分が理不尽な目に遭わされたような被害者面であるが、彼女にも少しは責任があるだろう。当然のようにお金を受け取ることも私は違和感を持った。ゆめは子供も結婚も望んでいないと語るが、渉がどうなのかは作中で明らかにならない。2人の総意としてそうなったのか、それともゆめがゆめの気の済むように決まれば良いのだろうか。何故ゆめが渉と付き合っているのか、私には分からなかった。強いて言えばゆめはあくてえをつける相手を必要としていたのだろうか。
次にゆめと他者との関係を見ていこう。ゆめは家族以外の関係が希薄そうに見える。年が明けゆめは二十歳になる。成人の日は仕事であった。晴れ着姿の成人を見かけることで自分がこの人たちと同級生だと気付く。ゆめは同級生の友達がいないのだろうか。友達と何色の晴れ着にするか、どこで朝のヘアメイクをするか、その後の同窓会に参加するかだの話さないのだろうか。きいちゃんもばばあもゆめの晴れ着姿を見たいと思わなかったのだろうか。そんなことも忘れてしまうくらい日常に忙殺されているのか、ゆめも興味がなかったのか。ゆめはこの日仕事に行き、コンビニでコーヒーを買う。事務所に着くと派遣会社の担当である瀬下という男がいる。ゆめは身構える。
「彼の態度は、相手に緊張を強いるような、常に監視されているような気分にさせるからだ。(p.203)」
ゆめは瀬下とも仲良くないらしい。瀬下はゆめに「幼い子供に話しかけるように(p.203)」話す。ゆめは今勤めている会社に正社員として働きたいと伝えているが、社内の人間に対する記述はない。ゆめが正社員として働きたいのはやりがいや社内の居心地の良さでもなく「若さ」と引き換えに自分の生活を楽にしたいからだけだった。
「学歴もない、仕事に役立つ資格もスキルもない(p.240)」
何の仕事なのかはっきりしないが、高卒でコーヒーのおつかいをする仕事であれば手取り20万もいかないだろう。正社員になってもばばあときいちゃんとの生活が楽になるくらいで自立にはきっと程遠い。
会社の人への記述もないが他の人へのそれも薄い。ゆめが渉とその恋人と飲みに行ったときのこと。ゆめは「もっと、くだらない、とるに足らないことを考えようと思った。たとえば男の話。(p.175)」として、その日を思い出す。ゆめは渉の先輩から「ゆめちん」などと呼ばれて 下ネタの話をされる。彼らの会話は鼻白むものであるが、ゆめは失礼で性的な話をしても構わないと舐められているのだろうか。ゆめの日常で1番よく話すのはばばあ、次にきいちゃん、そして渉。3人以外ででてきたのは瀬下と渉の先輩のみである。他に友達の影は見えない。周りの人との関係が薄そうなことが、ゆめを子供っぽく見せるのだろうか。アフターピルについても、その場になって調べるまで知らなかった。同性、同年代の人が周りにいないせいで知識が乏しいのだろうか。
ゆめと航輝の違い
ゆめと異母弟航輝(7歳)の扱われ方は大きく異なる。まず航輝について見ていきたい。ゆめは裕一から航輝の様子を聞かされる。
「年をとってからの子供だからか、溺愛しているのが表情からも話からも伝わってくる。(p.181)」
航輝は裕一のサッカー選手になりたかったという願いとモテそうだという理由からサッカーを習わされているらしい。航輝の願いというより裕一が主体的に決めたようだ。喫茶店にいる間、裕一は息子の話を続ける。航輝はバク転にハマっているそうだ。
「わからんけど、あいつがいまハマってるんだよ。もちろん、サッカーもやってるんだけどさあ。なんか、YouTubeだかなんだかでバク転してる若いのの、かっこいい動画見たみたいで。それから俺もやるって言い出して。場所を変えて撮影して、それをつながりのある一本の動画にしたいみたいで。俺も休みの日に付き合わされてる(p.182)」
裕一は航輝の興味のあるものに詳しい。そのうえ薄着で出かけていったが大丈夫かなどとゆめの前で心配する。
「親父と会っていない間にも、彼の日常は息子自慢が主となっているFacebookで公開されているから、大概のことは知っていた(p.185)」
裕一のSNSにゆめは登場しない。
「最新の投稿は息子がサッカーのリフティングに打ち込む動画だった。楽し気な航輝の笑い声と、回数を数えていた親父が、最後には手を叩いて褒めちぎる様子が収められている(p.200)」
ゆめは自分が中学生のころを思い出す。当時は「彼の浮気が原因ですでに家族関係は破綻しかけていた(p.200)」時期である。ゆめは小説家になりたいと思っており出版社へ作品を送る。すると担当編集者から共同出版の話がくる。ゆめは子供の頃から何かをねだったことがなかったため「頼みを聞き入れてもらえるのではないかという、淡い期待(p.200)」があった。裕一の反応はこうだった。
「親父は用紙に印字された講評を、クリアファイル越しにちらりと一瞥したきり、何も言わずに、飲み干したチューハイの空き缶を潰し、大きなげっぷを吐く。(p.201)」
裕一はゆめはいいカモで騙されているのだと言う。ゆめは昨日小説を印刷していたら紙とインクの無駄だと咎められたのも彼の不機嫌さの原因だと推測する。
「おまえの書いた本なんて誰が買うんだよ。親戚か?おまえの友達か?学校の先生か?小遣い稼ぎじゃねえんだ。ろくに働いたこともねえガキがえらそうに(p.202)」
ゆめはなお粘る。
「ここで折れたら、折れた自分を呪いそうだと思った(p.202)」からである。すると裕一はゆめの大切な文庫本を真っ二つに引き裂いた。ゆめは止めようとするが裕一は「奇声を発しながら、無心で本の紙を破り続けた。(p.202)」「ったく、沙織が本ばっか読ませるから、下手に夢みるような子になっちまったじゃねえか!(p.202)」何を言っているのだか意味不明である。ゆめが本ばかり読んでいたのはきいちゃんのせいなのだろうか。 兄弟はいない、両親は不仲、うるさいばばあ。こんなひどいことを言っても裕一は作中ゆめに詫びることもない。傷付けたら謝罪するなんていう人間関係すら築けない家庭に育って、ゆめは本を読む以外に楽しめることなんて他にあっただろうか。裕一はゆめを愛していない。何故だろう。航輝と違い「年をとってからの子供」でないからだろうか。いやきっと裕一にはゆめを理解することができなかったからではないだろうか。裕一はバク転やら(パルクールのことか?)は分からないが航輝がハマっているから付き合う。けれどゆめの小説には全く興味を持たないし、八つ当たりの標的なのか理不尽な暴力を振るうのである。ゆめの更なる不幸はこうした暴力に遭っても家庭内で味方になってくれる人がいなかったことである。この場にきいちゃんはいるが発言もない。ゆめに寄り添うのはばばあだけであった。「まったく、本をこんなにひっちゃばいて。なあ、ゆめ?あいつは怒ると癖がわりいなあ、ほんと。でもほらこうやって、しゃばけた紙、テープでとめりゃあ読めんこたあねえ(p.202)」ゆめは「ばばあはあたしの絶望など、ちっともわかっていなかった(p.202)」と語る。しかし問題はゆめに「ちっともわからない」ばばあしか寄り添う人がいないことだ。新しい本を買うよりテープで修復しようとするばばあ。航輝だったら、きっと裕一もばばあもこんな対応はしないだろう。
何故裕一にゆめが理解できないのかというと、ゆめが女だからではないだろうか。もしもゆめが男だったらこんな悲惨な日常を過ごしていただろうか。少なくとも嫌な気持ちは減る。彼氏の先輩に「こいつ、同期ん中でいちばんチンコがでかいって噂なんだけど、実際どうなの?(p.175)」と言われたり、父親に「いい女になったなあと思って。-女は愛嬌が一番。」「かわいくてちっこかったゆめはどこに行っちゃったのかねえ。ついこの前まで俺と一緒に風呂に入って、俺のチンチン物珍しそうに触って喜んでたのになあ(p.184)」と言われもしなかったろう。ゆめがもしもサッカー好きの少年だったら、裕一ときいちゃんの鎹になりえたろうか。
高校卒業後に派遣会社に登録したことも、勤め先で正社員を目指すことも、ばばあときいちゃんと同居することも、何一つゆめの選択ではない。選択肢も得られないのだ。
ゆめの夢
ゆめは小説家を目指している。文学賞に応募し落選してもめげない。「いま、この目の前にある現実は、あたしの人生ではないと思った。これは偽物で、あるいは仮の人生で、本当の人生はこれからやってくる。あたしは小説家になりたかった。小説家になったその瞬間から、あたしの人生は始まるのだと、あたしはそこから生まれるのだと、切実に信じていた(p.172)」
ゆめは高卒で派遣会社で事務仕事をしている現実を「偽物」か「仮の人生」だという。夢の理解者はいない。ばばあは「まだそんなこんやってるだか。そんな一銭にもならんことしちょ(p.173)」とけなす。裕一は「ゆめは小説家になるんだろ?小説家っていうのはもっとこう、情緒にあふれる言葉をつかうんじゃないのか(p.185)」とあくてえを止めさせるための引き換えとしてだしてくる。きいちゃんはゆめに言わせると「ぬるい」。「あたしが保育園の時に、保育士から箸の持ち方を褒められたこと、中学生の時に書いた作文がコンクールで入賞したこと、それらはすべて同列なのだ(p.210)」。ゆめの周りには理解者はいない。そうして現実世界と距離を置き、小説家になってこそ本当の人生が始まるのだとするゆめの未来が明るくあることを私は願ってはいる。ゆめがばばあに放った「あんたのかわいい孫はあんたの顔なんか覚えてねえよ!あんたは裏切られて見捨てられたんだ!孫にも!息子にも!(p.224)」という言葉が返ってこない未来を。
引用
あくてえ(『文藝』2022年夏季号)
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