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【オトナになることのうた】忌野清志郎●彼が唄った子供と大人

MLB(メジャーリーグ)を観てますが……こういう勝ち抜き戦の場合、ニュースで毎回のように「逆王手」という言い方を見かけて、毎回「その表現は違う」というコメントが返っていくのが恒例になっていますね。

逆王手というのは、将棋の世界の呼称なわけか。そりゃそうか。

しかしスポーツで、先に何勝かしたほうが勝ち抜くルールなら、そもそも「逆王手」という状況などありえないはず。

うーん、「逆転優勝の可能性が生じる」はその通りだけど。それは逆でなく、両王手ですよね。

これは2011年の記事。

この議論を何10年も昔から聞いてる気がします。
ただ、マスコミ各社が使用をやめる気配はないので、おそらく良しとしているんでしょう。

これと若干異なりますが、僕は会話で「逆に」という言い方がムダに使われている傾向がずっとあるように思います。何の逆にもなっていない、何も意味が反転してない状態でも、そう言いたがるきらいが世間にあると。

などと書いてますが、自分は言葉の使い方にそこまで厳格なほうではないです。

えっと。先日は、葡萄畑のライヴを観て来ました。

彼らが活躍したのは70年代半ばからで、最初期はアメリカーナ、2nd以降はイギリス流のモダン・ロックからエキゾチックな感覚に移行したバンドですが(その始めの頃は「日本語で唄うのもありかも」っていう時代だったとか)。それより何より、メンバーが発する、ゆるくてなごやかで、いい湯加減の雰囲気がこのバンドのキモではないかと思いました。

そのために10年以上ぶりに訪れた高円寺は、思ってた以上に街のムードが変わってなかった。無力無善寺に行って以来か。20000Vはとっくに店名変えて移転してるし。

このところは、浅井健一にインタビューした記事が公開されました。ぜひ。


それからGLAYのTAKUROへのインタビューも。ぜひぜひ。


さて、今回はタイトルをRCサクセションでなく、忌野清志郎にしました。バンドというより、彼の個人性の強い名義の作品が多いためです。
とはいえ、内容は前回からの続きです。

清志郎が唄ってきた大人/子供についての歌たち


忌野清志郎には、どこか反抗的なイメージを持っている人もいるのではないかと思う。僕自身がそう感じていたし(その考えは現在もいくらかはあるが)、とくに80年代のRCの頃はテレビ出演時にやらかしたり、ザ・タイマーズではメッセージ性の強い歌を、時にはゲリラ的に演奏したりと、攻撃的な側面もたしかにあった。

ただ、彼の歌を聴いて、その言葉を読むと、つねに反抗的な姿勢の人であるわけではないのがわかる。これはフォーク時代の歌に顕著だが、恋心とか身近なことへの感情など、とてもパーソナルな感情を唄っていて、そこにかわいらしさのようなものを感じる瞬間もある。

前回は「空がまた暗くなる」について触れたが、今回は清志郎が唄ってきた<大人>への、さらにそれに対する<子供>への見方について考えてみたい。とはいえ、彼の作品は膨大なので、こうした歌のすべてを網羅できていないかもしれないのだが。

このテーマでまず頭に思い浮かんだのは、初期のRCの楽曲「ぼくの好きな先生」である。
RCの中でも知られているほうの曲だと思う。1972年の発表で、主人公が通う学校で自分が好きな先生のことを唄ったもの。当時、清志郎はハタチになっていたが、この歌は高校時代のエピソードから書かれている。

実在の先生がモデルになったことでもおなじみの歌だ。清志郎はこの歌で描いている美術の先生に惹かれていた。

清志郎は<ちっとも先生らしくない>というこの先生を慕っていた。先生自身も職員室が嫌いだという。

先生……教師という、学生が日頃接する他人の大人の中で最も身近な存在に対して、強い親近感を抱いていることがわかる。それだけ、そうではない教師が多かったことも想像に難くない。

これは僕の見方だが、この歌の描写からは、学生時代の清志郎が「自分を理解してくれる大人もいるんだな」と思っていることが感じられる。もっとも、決して、こじつけるつもりはないが。

次の曲は、やはりRCサクセションの「恐るべきジェネレーションの違い(Oh,Ya!)」。

1982年のアルバム『BEAT POPS』収録曲。ただ、曲自体はこれ以前から存在していて、ライヴでは前から唄っていたようだ。

<大人達>、さらに<アパートの大家>のことを、理解しながらも、自分の生き方というか生活のあり方は譲れないと唄っている曲。ジェネレーションの違いというくらいだから、やはり上の世代、大人のことをモチーフにしている。
ただ、清志郎はそこで<その辺の接点はないのか>と唄っている。大人との平和な共存を意識しているのだ。

次、「子供/Children’s Face」はソロでの初アルバム『レザー・シャープ』に収録。1987年作。ファンキーでカオスティックな曲。

この曲では<子供の顔したアイツ>より<信頼できるぜ大人の方が>と唄われている。
そう、子供のほうがタチの悪い存在として描かれているのだ。それも自分を裏切った相手のことである。

今回は詳しく書かないが、清志郎は「ボスしけてるぜ」のように、周りにいるスタッフやビジネス関係の人間に対して腹を立てる局面もあったようだ。

そもそも音楽活動をしていて、それにビジネスが絡み、お金がかかる場面になると、そこで子供のような……つまり未熟で、仕事には不十分な動きや対応をされると、トラブルの元になったり、迷惑をこうむったりする。

僕個人は、仕事を依頼してくれて、その流れで報酬についての話をすぐにしてくれる相手に対しては、無条件で「この人はできる人かもな」という印象を抱く。まあ仕事において、それがすべてというわけではないのだが。ギャラの話はできれば早いめにお願いしたいところだ。

続いて、THE TIMERSのアルバムから。1989年11月リリースの本作では、大人についての描写が何ヵ所かで出てくる。

「争いの河」では、争いに終始する大人たちのことをあげつらっている。政治家、宗教の奴等、科学者、企業……。大人という言い方をしているが、世の中で力を持った存在について言及した歌だ(タイマーズにはこれ以外にも政治家を糾弾する曲がある)。


もう1曲は「3部作」。これは「人類の深刻な問題」「ブーム」「ビンジョウ」という3つの曲をメドレーのようにつなげた歌である。
世の中への冷めた目線が感じられる作品で、このようにタイマーズというバンドでは清志郎のシニカル、そしてアイロニカルなものの見方がいっそう強調されている。

そんな中で清志郎は……もとい、ZERRY(変名)は、この3曲それぞれで、子供、それに大人という言葉を使いながら、唄っている。

「人類の深刻な問題」は、子供の頃から態度が悪いという自分についての言及が登場。
「ブーム」は、自分に子供が生まれたことが一瞬出てくるが、これに大きな意味はあまりなさそうだ。むしろそのあとの<大人らしくしなくちゃ>というフレーズである。これは相変わらず落ち着くことがなく、それこそ、時に外に向けて反抗的な動きをしてしまう自分を省みているかのようだ。もちろん、そこまで反省しているわけでもなさそうなのが清志郎らしいが。
そして「ビンジョウ」でのガキや子供という言い方は、レベルが高くないものへの言い換えだろう。

子供も大人も、それぞれの局面で異なるニュアンスで使われている。ポジティヴな意味だったり、ネガティヴな内容だったりする。
子供らしい純粋さ。大人としての分別、落ち着き。『カバーズ』のあとの清志郎は、そうしたところで気持ちが揺らいでいたところがあったのだろうか。いや、(やはり)そこまではなかったようにも思う。これは言い切れない。
ただ、世の中のあることの多くは、大人だからとか、子供っぽいとか、そう簡単に断定できるようなことばかりではない、という気はする。
この時代の彼は、そのぐらい激動の時期だったと思う。

さて、順番としては、この直後に「空がまた暗くなる」が入ったアルバム『Baby a Go Go』がリリースされている。

その翌年である1991年には、「パパの歌」が登場。これは昼に働くお父さんを讃えるフォーキーな曲で、作詞は糸井重里ながら、清志郎のイメージを大きく変えた歌であると言える。

パパを大人だとすれば、その存在を最高の歌と演奏で、肯定しているのだ。


その次に出たのは、「お兄さんの歌」。これは2・3’s時代のシングルで、1993年1月発売。
にぎやかで楽しい歌で、このテーマにあるのは、成熟する、成長するということではないかと思う。ただ、<今じゃすっかり大人になったもんだな><子供向けの歌><また子供の歌>というフレーズは、各々の箇所でまたニュアンスが異なる印象を受ける。あまりいい意味ではなさそうだが、そればかりでもないようにも受け取れる。歌詞には「パパの歌」の好評を受けているところも感じられる。

しかし……この歌詞でシングルの表題曲にするとは、ちょっと驚いた(OAしにくい箇所あり)。

それから「浮いてる」はScreaming Revue時代の『GROOVIN’ TIME』の収録。1997年7月リリース。
どこで何をやっても浮いてしまう自分のことを唄っているのだろうか。その中で<大人のくせに 浮いてる><子供じゃないから 浮いてる>と、自身を冷静に見ている感じがある。


こんなふうに清志郎が書いた大人についての歌は、他者への提供曲にもある。「こころのボーナス」は吉田拓郎のアルバム『Hawaiian Rhapsody』(1998年)に入っている。


のちには、清志郎が自身のアルバム『冬の十字架』で唄った。

この曲には、<シゲル>という人物がナイフを振り回したことで、<暗闇にぶちこまれ>てしまい、人々がそれを見て笑う描写がある。その理由は<大人のくせに自分の生活(こと)で 手いっぱいだったから>とのこと。
大人のくせに、という箇所には、清志郎の価値観とともに、いくばくかの客観性も感じる。大人とみなされるような年齢ならそれだけの責任を負わないと、ということだろうか。案外とまともな意見である。

そして最後に紹介するのは「出発の時間」。『RUFFY TUFFY』、1999年7月のアルバムだ(シングル「QTU」にも収録)。

この歌の重要なポイントは<生まれた時から大人なら/ずっと子供でいられるさ>である。このフレーズには、清志郎という人の像が、そのまま重なる。

あれこれ書いたが、きっと清志郎は、僕がここで述べているほど子供とか大人という表現への執着はなかったのではないかと思う。
ただ、僕個人が感じる彼のスタンスは……純粋さを振りかざして満足な仕事もできない子供なんてとんでもねえ!ということ。それから権力や常識、あるいは何もかもを知っているような顔をして押さえつけようとしてくる大人に対しても勘弁してくれ!と言っているいうことである。

そんなことを書いていたら、いろいろ思い出した。
これは僕の仕事のことでも、あるいは知り合いのことでもあるのだが……その人たちは大人の年齢だけど、まるで子供のような、少年少女のようなまっすぐな理想を持って突き進もうとする人たちだった。その人たちはそれぞれの場所で、大人の事情というやつに負けそうになったり、「子供じゃないんだからよ」みたいに非難されているような光景をくぐり抜けていた。
もちろん僕はその人たちのすべてを見ていたわけではない。でも理想を実現させようとすると、夢を追いかけようとすると、そういう困難には必ずブチ当たりものだ。

音楽の世界を目指すような人たち、それに、その周りで音楽を盛り立てようとしている人たちには、そういう場面が多いのではないかと思う。
そしてもちろん、これは音楽だけに収まらないだろう。

少年よ大志を抱け。
しかし世の中には、大人の事情というやつもある。
理想を持つ人たちには、どうかその障壁を乗り越えてほしいものだ。

「空がまた暗くなる」の<おとな>について、もう一度


話はここで、再び「空がまた暗くなる」に戻りたい。清志郎がどんな思いであの歌を唄ったのかを。
この歌について彼が語ったインタビューは今のところ見つかってなくて、だから想像で書くしかない。以下はすべて僕の見方である。

<おとなだろ 勇気を出せよ>

この1990年頃、39歳という年齢になっていた清志郎は、大人という立場ゆえの責任や義務のようなものをあちこちで感じていたのではないかと思う。

当時の清志郎にはすでに子供がいて、RCサクセションには活動休止の危機が迫っていた。そんな中で彼は引き受けること、引き受けなくてはならないことが増えて、何かと大変な時期だったのではと思う。さっきのフレーズは、その混沌の中で導き出したのではないだろうか。
さらに想像すれば、この歌は清志郎自身が自分に向けて書いたところもあったのかもしれない。
……いや、そういうでもなかった可能性も、充分にあるか(←「~かもしれない」で終わらせるとその印象しか残らないので、補足的に)。

そして、思う。今この21世紀になっても「空がまた暗くなる」が受け入れられている背景には、前回書いたように大人になった音楽ファンが増えたこともありながら、大人という立場のしんどさ、ツラさ、厳しさを感じている人がたくさんいるからではないか、と。

大人というやつは、本当にしんどい。さっきも書いたように何かと責任や義務が問われ、そこで現実に向かいながら生きることを要求される。苦しいこと、困難なことがあっても、目をそむけてはいけないとされがちである。

それが原因で心の病になる人も多いので、それらを誰に対しても強要するのは良くないと思う。
ただ、現実問題として、日常を続け、日々を生きるには、立ち向かうしかない場合が多い。責任を取ったり、義務を遂行したりすることが求められる。
だけど人間、歳をとっても、いくつになっても、変わらない部分、変われないところだって、ある。信念を曲げなきゃいけないことも、思ってもみなかったことをやらなきゃいけないことも、あるだろう。

大人は、しんどい。
そこで清志郎は<勇気を出せよ>と唄ってくれた。
聴くたびにグッと来てしまうのは、そういう部分である。

そして「出発の時間」の<生まれた時から大人なら/ずっと子供でいられるさ>という言葉。
これは忌野清志郎という才能を、そしてその稀有な存在そのものを表しているかのような表現だと思う。


高円寺の中華料理 味楽で食した
ポークソテーライス、750円!
目玉・サラダ付きとのことですが
ハムもキャベツもレモンも付いています。
ご主人、肉の塊を豪快に切って調理してくれました。
おかげでライヴ直前に満腹に~

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