ポリアモリーと3つの山
よく2人で食事にいく異性がいる、と話すと「なんで付き合わないの?」と言われる。
何年も付き合っている恋人がいる、と話すと「なんで結婚しないの?」と言われる。
逆に聞きたくなる
「なんでそう思うの?」
と。
そこで今日は、これらの発言が生まれる背景について考えてみた。
友人・恋人・家族という3つの関係について、ポリアモリーを実践して変わったこと、モノアモリーとの価値観の違いについて連休にモヤモヤしながらまとめてみた。ツッコミどころは満載な気もするが、読んでもらえると嬉しい。
ポリアモリーとは、複数人と同時にお互い合意の上で恋人的な関係を築くライフスタイル。ポリアモリーに関するnoteはこちら。
■友人の山、恋人の山、家族の山
「なんで付き合わないの?」、「なんで結婚しないの?」という言う人の頭の中には、おそらくこんな構図がある。
友人・恋人・家族という3つの人間関係を「山」と捉えて、山の高さは「仲の良さ」や「関係性の深さ」だと考えてもらいたい。
「なんで付き合わないの?」、「なんで結婚しないの?」と聞いてくる人の中では友人の山の頂上は、恋人の山の入口と同じ高さ。恋人の山の頂上は、家族・親族の山の入口と同じ高さになっているのだろう。
つまり「友人としてそこまで仲がいいなら、付き合っているようなものじゃないか」という気持ちが「なんで付き合わないの?」という発言になる。恋人でも同じだ。
もちろんその発言を責めるつもりはない。ただこの構図の背景にはモノアモリー(恋人一人派)を前提としている2つの価値観を感じる。
■恋人の山は、神聖な山
1つ目はモノアモリーにとって恋人の山は神聖な山で、同時に登れるのは1人に限られているという価値観だ。これによって「もったいない」という感情が生まれる。
つまり「友人としてその高さまで登り詰めたなら、あの1人しか登れない神聖な恋人の山に入れるじゃないか!」というもったいない精神が「なんで付き合わないの?」という発言につながっていく。
■山の高さは、家族>恋人>友人
2つ目は山の高さだ。モノアモリーにとって恋人の山は、友達の山の上にある大切な山で、そんな恋人の山を上り詰めて辿り着く特別な山が家族・親族の山だ。
山の高さは「関係性の深さ」なので、モノアモリーにとって関係性が深いのは「家族>恋人>友人」ということになる。
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■ポリアモリーと3つの山**
ポリアモリーを実践して、僕にとって3つの山はこのように変わった。
ちなみにこれは僕の感覚を表現したもので、ポリアモリーの定義ではない。
ポリアモリーを実践してまず変わったのは、恋人の山と友人の山が重なったということだ。
恋人の山が1人しか登れない山でなくなったことにより、特に初期段階ではかぶりが多い。恋人の山と友人の山を行き来することも可能だし、結果として「関係性は仲が深まるにつれて、徐々に見極めていけばいい」と考えられるようにもなった。
次に、家族・恋人・友人という山ごとの高さも均一になった。
「関係性の深さ」という尺度は依然として存在するが、それは恋人や友達、家族という定義によって左右されるものではなくなった。恋人だから大切、家族だから特別という概念もなくなり、すべての関係性を一対一の関係性だけで考えられるようになった。
■関係性の名前に甘えたくない
「家族も友達も同じ次元で考えるなんて、寂しいじゃないか」という声も聞こえてきそうだが、僕はもともと「家族だから××」「友達だから××」という実際の関係性よりも「関係性の名前」が先行するのが苦手だった。
正確に表現すると、「家族だから」「友達だから」という関係性の名前に甘えてしまうことが怖かった。
「家族だから、もう安心」と考えてしまうと、その山は谷になるかもしれない。関係性に甘えると、関係性を深める努力をしなくなってしまう。
関係性の名前がなくても、関係性を深めていけるような人間関係を築きたい。ポリアモリーはそのきっかけの一つにもなった。
■ポリアモリーは、関係性の破壊と再生
ポリアモリーは、これまでの関係性の破壊することでもあるが、同時にフラットな状態から関係性を再構築する概念でもある。言うならば、関係性のスクラップアンドビルドと言えるかもしれない。
「恋人が複数いる」という状態ばかりが注目されがちではあるが、ポリアモリーにはもっと大きな意味や哲学が内在している気がする。