見出し画像

【楽曲紹介】自分をゼロにしないための「楽しい立てこもり」【佐野元春】

3月13日は佐野元春の誕生日だったそうだ。なので、あまり詳しくはないが佐野元春について自分が感じることを少し書いてみようと思う。

佐野元春の近年の楽曲(コヨーテバンド以降)の中で特に好きなのは、アルバム『Blood Moon』(2015年)に収録に収録された『バイ・ザ・シー』だ。

世の中は不公平だ
ますますきびしくなっていく
場違いな時代に迷子の君
なんとなくいつもあせっている

仕事をさがした
一日が終わった
何もかもが面倒になって
眠ってしまった

考えるな、と誰かが言う
夢など見るな、とひとは言う
繰り返し繰り返す間に
いつのまにか君をゼロにしてしまう

週末は君と街を離れて
海辺のコテージ
バイ・ザ・シー
波の唄 感じている
静かに過ごそう
バイ・ザ・シー

作詞:佐野元春

アンフェアでより過酷になっていく世の中で、うまく適応できず焦燥感に駆られている「君」がいる。むしろ人間ではなく時代そのものが「場違い」なのではないかとも感じられてしまう。
佐野元春の楽曲では頻繁に、このように根無し草的で目的地を見つけられない個人(人ではなく個人)が語られている。

「君」には仕事がない。職探しは本当に多方面から精神を消耗する行為で、収入や待遇や応募資格を見てはため息をつくだけでなく、「自分は本当のところ何がしたいのか?」という、今まで何となく抑圧してきた問いに否応なく直面させられる機会であるのだ。

ちなみに「仕事をさがした/一日が終わった/何もかもが面倒になって/眠ってしまった」のは現在のおれそのものである。求人を眺めていると、ある種の逃避的反応でひどく眠くなる。

そうして「考えるな、と誰かが言う/夢など見るな、とひとは言う/繰り返し繰り返す間に/いつのまにか君をゼロにしてしまう」と、世間が語る現実に徐々にすり減らされ、個人としての心を失ってしまいそうになる。

そんなとき、佐野は「君」を都会の喧騒から離れた「海辺のコテージ」に連れ出してくれる。自由を奪い、時代とともに悪くなる“普通”や“常識”に引きずり降ろそうと怨嗟的に現実を語ろうとしてくる世間から「君」を遠ざけてくれる。

おれはこれを“楽しい立てこもり”と定義したい。つまり「海辺のコテージ」への逃避は、ただの優雅な休暇ではなく、自分を「ゼロ」にしないための抗議行動的拒絶ではないかと感じるのだ。

それは2番の歌詞にも通ずる。

いいことばかりじゃない
思い通りにはいかない
やり残したことがいっぱいで
途方に暮れている

そんな隙間につけこんで
だれかがドアを叩いている
ほっといてくれ
かまわないでくれ
本気を出すのはまだ先だ

週末は君と街を離れて
海辺のコテージ
バイ・ザ・シー
波の唄 感じている
静かに過ごそう
バイ・ザ・シー

作詞:佐野元春

「君」がこの時点で仕事に就いていないのは、ただの怠惰によるものではなさそうだ。何をどれだけ成し遂げているかは別として、とにかく労働とは別にやりたいことがあり、半ば挫折している状況に見える。

「隙間につけこんで」「ドアを叩いている」のは誰なのか。騙し、むしり取ろうとする悪意の人間であると読み取れよう。だがそれと同時に、先述したような、時代とともに悪くなる“普通”や“常識”に引きずり降ろそうとする世間、つまり相当数の善意(自覚のうえでは)の人間である可能性もあるのだ。

でも、「ほっといてくれ/かまわないでくれ/本気を出すのはまだ先だ」。まるで典型的な無職の引きこもりが用いる常套句のように思えるが、そうではない。

「君」は部屋の中ではなく「海辺のコテージ」にいる(行く)。“内”ではなく“外”にこもる。波の唄を感じて静かに過ごし、物憂げな世の中に対して、バーカと一笑に付すかのように立てこもるのだ。

このモラトリアムは、ただの引き延ばしではない。諦めた世間が望まない“本当のたたかい”を仕掛けるための、戦略的離脱なのだ。そこにおいて「事の良し悪し」は関係ない。

本当に欲しいものは何
たとえばひとつの美しい経験
幻を見るような眩しい永遠
事の良し悪しは別として
賢い君はもう見抜いている

作詞:佐野元春

曲解と言われても否定はしない。むしろ、自分自身へのメッセージとして受け取るためにおれはあえて曲解している。

なので、これを決して評論と受け取ってはいけないが、佐野元春は、還暦を超え古希を迎えつつある今もなお、自由でありたい若者のために歌っていることだけは同意してもらえると思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?