【楽曲紹介】限りなく近くて果てしなく遠い君の美しさに、おれも心奪われて泣きそうになった【佐野元春】
今さらなにを言う、と思われそうだが、佐野元春の書く詞(詩)はとても美しいと感じる。でもおれは、その美しさの正体をうまく掴めていない。
無論、ひとくちに“美しい”と言ってもさまざまな様相があり、佐野元春の詞(詩)においても一つひとつの作品が多彩な美しさを醸し出している。
しかしながら、ひとりの人間から生まれ出た言葉である以上、全体を伏流するエッセンスがなにかしらあるはずだ。
1曲だけに着目しても考察できる程度はたかが知れているかもしれない。それでも、詞(詩)の美しさという観点においてどうしても考えてみたい好きな曲がある。
アルバム『THE SUN』(2004)に収録された『月夜を往け』だ。
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涼しげで爽やかな月夜。夜なのに、不思議と暗さを感じさせない。「そっと/囁いてる」かように月が照っているからだろう。そして、月光を囁きとして感じ取れるくらい、心地よい静寂に包まれている。
「甘い香り」とはなんだろうか。素直に草花や木々の香りだと受け取ってもよいし、もっと五感と想像力を鋭敏にして“月夜そのものの香り”みたいな解釈をしてもよいだろう。たぶん、皆さんそれぞれが胸の内に“夜の香りの記憶”を持っていると思う。
そして語り手は「夢を見てる/君に心奪われて/泣きそうな夜」にいる。
この心情描写に、おれはまさしく「心奪われて」「泣きそう」になった。
この光景において本当に美しいのは、「月」ではなく「夢を見てる君」だ。
語り手と「君」は同じ場にいる。もしかしたら寄り添っているかもしれない。でも、「君」はいま語り手ではなく「夢」を見ていて、隣にいると同時に離れた場所にいるような存在だ。
隣にいると同時に離れた場所にいる、という不思議な隔たりは、 “限りなく近くて果てしなく遠い距離”とも言い換えられる。この、物理的距離感と観念的距離感の不一致(矛盾)によって生じる止揚が、語り手が想う「君」の存在そのものを淡く、儚く感じさせ、美しさへと昇華させているのではないか。
だからこそ「心奪われて」「泣きそう」になったのだと解釈している。外見上の美しさだけだったら、うっとり見とれるだろうけど、たぶん涙はこみ上げてこない。
また『月夜を往け』に限った話ではないのだが、おれはいつも佐野元春が描く“君”や“彼女”に恋をしてしまう。
それはきっと、何気なく近づいたらすぐどこかに去ってしまいそうなイノセンスと、それでも近づいて触れたいと思わせる気高さと孤独を持ち合わせた姿を秀逸に描写しており、その姿に惚れてしまうからだと感じる。
佐野元春が描く“君”や“彼女”、あるいは“お前”や“あの娘”がすべて上記の傾向を持っていると断言するつもりはないが、このような一面を強く有していることは同意してもらえるだろう。
今日までと同じように「明日もきっと/さまようだろう」。自分の地盤や立脚点がまだ確立されておらず、根無し草的に、毎日を宙ぶらりんに生きている。でも、それは決して退廃的・破滅的にその瞬間だけを過ごしているのではなく、漠然とした不安のもと、まだ信じるべき道を見つけられずにいるだけなのだ。
それでも語り手は強く決意する。「夢だけじゃなくて/今だけじゃなくて」、つまり眼前を移ろうものだけではなく、「この命」、言わば自分たちの全存在や生の在り方そのものを深く慈しみ、愛おしみながら明日へ歩んでいこうと。
彼らの「命」は、何もしなければ倒れたりこぼれ落ちたりしてしまうくらい不安定で脆い。だから「支えきれるだけの愛」を自分たちで「抱きしめて」いく必要があるのだ。その弱さと不充足感こそが、佐野元春が示す“若さ”の一面を表しているのかもしれない。
「僕らの道」「二人が行く/この道」が正しいのか間違っているのか、誰にもわからない。それでも照らしてほしい。どのような道にせよ「ここに続く限り」歩んでゆきたい。それが、快楽も苦難もぜんぶ丸ごと抱きしめて生きていくことだから。
「この道を照らしといてくれ」と願う対象が太陽ではなく月なのが、この曲の印象深さを支えている。月に願うという行為が、 “限りなく近くて果てしなく遠い距離”にいる「君」の儚げな実存と、「僕ら」の静かながら確固とした決意を情緒的に象徴するからだろう。
現在27歳のおれが言うのも変かもしれないが、こんな若者がひとり(一組)でもいてくれたら、世界は自分が思っているよりマシかもしれないと思えてくる。
そして佐野元春の詞(詩)には、世界を能天気に美化することも過剰に悲観することもなく、フェアかつクリアに見つめたうえで、まだ前向きに生きる価値があると思わせてくれる力がある。
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おれが佐野元春の書く詞(詩)を美しいと感じる理由。そのひとつに、先に書いた
の根拠が深く関係していると感じた。
それを踏まえて、これまでに書いた内容をシンプルにまとめると、こうなる。
“気高さと孤独に支えられたイノセンス”と、それに対する“限りなく近くて果てしなく遠い距離からのまなざし”が、ひとことでは捉えられない無常的な美しさの底流になっているのではないか。
うーん、ぜんぜんシンプルにまとまってない? わかりにくい? 正直おれもそう思う。
でも、複雑でわかりにくいものを複雑でわかりにくいまま咀嚼することも世の中には必要だし、複雑でわかりにくいまま保留すれば、より佐野元春の作品に迫る動機になるのだからいいんじゃないかな(開き直り)。
ともかく今回は、おれはこんなふうに佐野元春の詞(詩)を美しいと感じている、という部分だけわかってもらえたら幸甚です。
【ここでも佐野元春のはなしをしています】
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