佐野元春との2度の出会い
さいきん佐野元春について知ったふうな口を叩いている「河合須弥」とかいう馬の骨
佐野元春の詞(詩)を題材にしたエッセイの投稿が、本稿でちょうど10本目になる。
これまでの記事を通じて自分に関心を寄せてくれた人が一人でもいるのなら、それは大いに幸甚である。無名の書き手にとって最初かつ最大の難関が、まず読んでもらい、興味を持ってもらうことだからだ。
今回の記事は、そんな、佐野元春にまつわるエッセイを機に「河合須弥」に目を向けてくれた稀有な方々に向けたものだ。自己紹介も兼ねつつ、自分が佐野元春の楽曲に出会ったきっかけについて書いていこうと思う。
きっかけは『アンジェリーナ』と『COMPLICATION SHAKEDOWN』だった
自分が佐野元春に触れ、興味を持った過程は、大きく分けて二段階ある。より正確に言えば、ふたつの曲を経て段階的に好きになっていった。
17歳のときに魅入られた『アンジェリーナ』、そして20歳のときに打ち抜かれた『COMPLICATION SHAKEDOWN』だ。
内なる物語を呼び起こす『アンジェリーナ』
人生で初めて触れた佐野元春の楽曲は『アンジェリーナ』だったが、実は音源で聴いたわけではない。もちろん、ライブで聴いたわけでもない。
では、何を介して出会ったのか。それは小川洋子の短編小説『アンジェリーナ』だった。
短編小説『アンジェリーナ』は、化学会社でのプロジェクトが挫折しかけている「僕」と、膝の負傷で踊れなくなったバレリーナである「彼女」との刹那的なめぐり逢いを描いた恋物語だ。駅のベンチにぽつんと置かれた、「ANGERINA」の刺繍入りのトウシューズが、物語における中心点的なアイテムとして登場する。
自分がこの小説を読んだ際に惹かれたポイントは、物語の内容そのものというよりも、楽曲の歌詞を小説に翻案するというアプローチだった。
佐野元春とかいう人が書いた『アンジェリーナ』の歌詞には、受け手の物語を呼び起こす“何か”がある――。
そう直観して、実際に『アンジェリーナ』の歌詞に目を通してみたところ、たしかに合点がいった。
佐野元春が語る情景や感情は、受け手に対して独特の距離感を保つ。手を精いっぱい伸ばせばギリギリ届くかもしれない、でも届かないかもしれない。そんな、誰もが青春時代に持つであろう、近いけれど遠いひとを想う甘い痛みを喚起するような距離感だ。
そして、このような彼我の絶妙な隔たりは、歌詞内における語り手が、都会の孤独の中で「お前(君)」とのイノセントな共鳴を強く優しく求める姿とリンクする。このリンクが、受け手の内なる物語に「語ること」を呼びかけるのだろう(小川洋子が実際にどう感じ取ったのかは知らないけれど)。
説明がわかりにくかったかもしれない。でも、それはある意味において必然だと思っている。なぜなら、佐野元春の詞(詩)は、感じようとするとスッと胸に入ってくるけれど、理解しようとすると途端に難しくなるからだ。
だから、説明を試みると回りくどくてわかりにくくなる(言い訳がましいな)。わかる人だけわかってくれればいい。
話が逸れたが、自分は以上のような経緯で『アンジェリーナ』と出会い、この曲をきっかけに佐野元春のベストアルバム『ソウルボーイへの伝言』を聴くに至った。
だが、この時点では、気分を変えたいときに気に入った曲を少し聴くような程度の温度感だった。
困惑と驚嘆の『COMPLICATION SHAKEDOWN』
17~20歳ごろの自分は、日本語ラップをわりと熱心に聴いていた(現在でもそうだが)。とくに好んでいたのは、ライムスター、ブッダブランド、キングギドラといった、主に「さんピンCAMP」で活躍した世代の面々だ。
日本語ラップが好きだったのは、押韻をはじめとした日本語の言葉遊びが自分にとってとても面白かったからだ。
振り返れば、『アンジェリーナ』においても〈オー アンジェリーナ 君はバレリーナ〉〈今晩誰かの車が来るまで/闇にくるまっているだけ〉と、押韻が組み込まれていた。こうした、歌詞の情緒性を損なわない程度の言葉遊びは、後の作詞傾向にも時おり見られる。
さて、なぜ日本語ラップと佐野元春が結びついたかというと、佐野元春リスナーであればすでに察しがついていることだろう。
自分はわりかしウンチク好きだったので、知識を楽しむために日本語ラップの系譜を遡り、誰がどのようなアプローチでこの音楽ジャンルの発展に寄与したのかを調べてみたのだ。
そこでぶつかったのが、アルバム『VISITORS』だった。佐野元春との2度目の出会いである。
自分はリアルタイムで体感した世代ではないが、多くのリスナーと同じように『COMPLICATION SHAKEDOWN』に戸惑った。どう解釈してよいかうまく判断できない。でも、たしかにこれは、間違いなく日本語ラップの源流として名前が挙がるべき、エポックメイキング的な作品であることは一瞬で腑に落ちた。
『VISITORS』そのものが、ヒップホップやファンクの要素をふんだんに取り入れた、挑戦的かつ革新的なアルバムであることはよく知られている。リリースされた1984年当時にこのアルバムを聴いたリスナーたちは、さまざま意味で心を揺さぶられたことだろう。
受け入れやすいキャッチーな作品で楽しませてくれる一方、突如として前衛的なアウトプットを繰り出して脳天を打つタイプのクリエイターは大好物である。
自分は、この『COMPLICATION SHAKEDOWN』および『VISITORS』を機に、佐野元春への見方を大きく変え、有名曲のつまみ食いではなくアルバム単位で音源に触れるようになった。
そして、今、此処にいる
以上が、佐野元春との2度の出会いについての簡潔な述懐である。
現在は、わりと広くアルバムを聴いているつもりだが、ストリーミングサービスで聴くのもCDを所有しているのもコヨーテ・バンド名義のものが中心だ。
佐野元春の楽曲は、どれを聴いても新しい発見や味わい深さと出会えるし、それぞれ異なったかたちでの完成度の高さがある。
それでもコヨーテ・バンドが中心になっているのは、円熟味を帯びた現在においてもなお、郷愁に浸るような安直な自己模倣に走ることなく、リアルタイムの若者に(も)深く刺しにくる言葉を語るからである。詳しくは過去に投稿した記事に書いているので、そちらも読んでいただけると大変嬉しい。
冷静に考えるまでもなく、あと数年で古希を迎える年齢にありながら、現代社会への批評性を含んだ最前線の楽曲をコンスタントに生産し続ける体力と精神力は驚嘆に値する。なんというか、枯れない。
「成熟した若さ」。こう書くと、シェイクスピアでいう「冷たい炎」「醒めた安眠」のような形容矛盾(撞着語)に思えるが、佐野元春においては矛盾(撞着)していない。修辞法ではなく、そのまんま、成熟していて若いのである。
自分は、このままイレギュラーな事態がなければ『今、何処』の全国ツアーに足を運ぶ予定である。佐野元春の成熟した若さを身体と精神で受容し、己の若さも成熟させて「大人」になりたい。そして、魂をぶち上げたい。
【ここでも佐野元春について書いています】
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