親を見送るということ- 母まで入院? 編 -
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しかし、父は持ち堪えた。
担当の先生から、
「またいつこんな事があるかわかりません、覚悟はしておいて下さい。」
と言われた。
いつどうなるかわからなくても、私たちは帰らなければならない。
しかも今はコロナ禍で面会もままならない。
それに家から病院まで車で1時間はかかる。
いざという時、看取る事も出来ないかもしれない。
帰り道、母は処置室にいられなかったことに対して言い訳をし始めた。
父が元気だった頃にはことあるごとに強気に文句をぶつけていた母が、突然か弱い女になってしまったように感じた。
でも、私はわかっていた。
母はもう病気の父と一緒にいたくないのだ。
家にももう戻ってほしくないのだろう。
きっとあの時あのまま全てが終わってくれれば、と思ったはずだ。
病気の父の面倒を見ることなど、おそらく母にはできないだろう。
では、母に代わって私が父を看病できるだろうか?
・・・わからない。
そんなこと、今まで具体的に想像したことすらなかったから。
私は結婚してからも、ずっと親のそばにいた。
ずっと親に守られて生きてきたのだ。
何があっても最後は母が何とかしてくれる。
そんな母が、いきなり当てにならなくなってしまった。
言いようのない心細さに、胸が締め付けられる思いがした。
家に帰ってからもいつ病院から電話があるか不安だった。
父を入院させた2日後の夜、母が「心臓がおかしい」と言い出した。
父のことが影響しているのかもしれない。
とりあえずその晩は母のそばで眠ることにした。
その後、朝4時を過ぎた頃だろうか、母が私の名前を何度も呼んだ。
深い眠りから現実世界へと無理やり引きずり出された私は、少し不機嫌そうに「どうした?」と尋ねた。
「静かにしていても良くならない。朝まで我慢出来ない、救急車を呼んで欲しい。」
とのことだった。
今まで人の世話を焼いてばかりで、誰かに助けを求めることなどしてこなかった母が、救急車を呼んでくれと私に懇願している。
「これは余程のことかもしれない」と、パニックを起こしそうになりながらも119に電話をかけた。
救急車を待つ間、母の保険証や飲み薬など、診療の際に必要になりそうな物を母のバッグに詰め込んだ。
同時に、どうして次から次へとこんなことが起こるのだろう、と怒りにも似た感情が込み上げてきた。
私の心の準備が整わないうちに救急車は到着した。
車の通りが乏しい早朝だったため、サイレンの音が一際けたたましく感じられた。
母はテキパキとストレッチャーに載せられ、私は救急隊員に指示されるままに救急車に同乗した。
母の様子を見て緊急性はさほど高くないと判断したのか、救急隊員の一人が
「この家には前にも来たことありますよ。去年お父さんが熱中症になったでしょう?お父さんは元気?」
と気さくに声をかけてきた。
以前、私と母が家を空けている間に、父が熱中症で意識を失い救急車で病院へ運ばれたことがあった。
隣の奥さんから電話をもらい、慌てて出先から病院に駆けつけたのだった。
処置室のベッドで、父は腹が立つほど気持ちよさそうに眠っていた。
医師も、「今日はもう帰って大丈夫ですよ。気持ちよさそうだから、起こすの可哀想ですけどね。」と笑っていた。
人騒がせなのに悪びれる様子のない父を、私は「バカの王様」と呼んでいた。
「父は今、咽頭癌で入院しています。」
私がそう答えると、救急隊員は「え、あんなに元気そうだったのに・・・?」とだけ返し、そこから先は何も言わなくなってしまった。
気まずい沈黙の中、救急車は病院に到着した。
最後に、救急隊員が
「大変でしょうけど、頑張ってくださいね。」
と私に声をかけて帰っていった。
母も色々と検査が必要で、長い時間待たされた。
結局心臓に問題はなく、念の為消化器内科を再受診して下さい、とのことだった。
ふと気づけばすでに太陽が空高く昇っていた。
私たちは娘に迎えにきてもらい帰途についた。
「夫のことから逃げたい」、そんな母の気持ちが、こんな形で表れてしまったのだろう。
母も精神的に大変なのだろうが、それが一気に私に覆いかぶさってくる感じがした。
こんなことでこれからどうなっていくのだろう?
私も将来に不安しか感じなかった。
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