壁に背をもたれ89日目となった
壁に背をもたれ89日目となった
この部屋を前の住人から譲りうけたのは233日前だ
まだ自分には見えない
彼がその前の住人からきき求めたという月の花は
壁に背を預け脚をのばして一度だけ深く息をすう
瞬きせずに窓の角をみつめる
数㎝の三角は年に二度だけ月と交わる
その光をあびた壁や畳に月の花が咲く
前の住人が花の種をみたのは
身体がゼリーに変じたときだという
前の住人はとうとう咲く花をみることはなかった
その前の住人もただ一つ前の住人から伝えきいただけのようだ
彼らは 数えてはいけない 予想してもいけない
目を氷にして見つめ続けなくてはならないと言っていた
いや わたしは数えてしまった 今日は377日目だ
月が少なくとも二度は過ったはずだ
明日を数える愚か者に月は花をみせない 最初からやり直しだ
壁に背をつけ深くすわり脚の力を抜いて息をとめる
目の氷をレンズにして三角の彼方に焦点をあわせる
いつしか 部屋と身体が呼応し
月が通過する日にむけ準備をはじめる
壁と畳は毛細血管をのばし心臓と絡み合い体液を交換する
壁と畳は身体を包摂し放物曲面へとかたちをかえていく
触角をふり摺足ですすむ蟋蟀さえ気づかない
年に二度完成する緩慢なメタモルフォーゼ
その変身がとまる頃 いつにない星の静寂を感じとる時
白道をすすむ月の歩みに耳を傾け 待ちうける
三角形の鋭角に屈折した月の翳の中に種があらわれる
斜辺に沿って歩みゆく月が
光量を増した降誕の帯に次々と種を蒔く
乾きはじめた身体 奪われる記憶 抗ってはいけない
体液を吸い脹れた種が 幼根をおろす地を探している
胚軸が背を丸め割れた種皮をもちあげようとしている
地から顔をだした子葉が種皮を振りおとそうとしている
ああ時間切れだ 月は隣辺から最後の翳を消しつつある
地では根冠の活動が止まり側根・根毛が消えてゆく
胚軸が細り斃れ種皮を被った子葉が干からびてゆく
部屋の曲面は一気に反りかえり
毛細血管は開穴し底知れない闇を開いた
渇いた痛みが部屋に放散される
立ち枯れた胚軸が畳に描く輪郭
縮むダエン 手をのばした重なる二つのシンエンは
種皮が壁にのこした刷毛跡 サンカクの滲みは
窓の前に揺れる子葉の黒輪 オーバルのうな垂れたヒトガタは
月の花を夢みた者の死花
月の花と交わることなくこの部屋の消点に魂を落とした者たち
もし この言葉をきき月の花を見たいと心を決める者がいたら
この部屋を譲ろう 壁に滲みとなっている私に囁いてほしい
【AN0PDB0】