自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)/村上春樹
「雑文集」の最初に収録されているお話。
"自分自身について説明しなさい"なんて言われても簡単に説明はできないし、ある程度うまく出来たとしても、1ヶ月後には"今の"自分は説明できていないなぁ、となってしまうかもしれない。
村上さんの初期の小説では、「僕」という名前の無い1人称の主人公がフィクションの世界で登場するのだけど、なぜかその主人公が自分の考えていることと同じことを考えている!?と既視感を超えた不思議な感覚をもたらしてくれ、その主人公の体験が小説を読むことで自分の体験にもなって、自己の変化を感じることもあった。
それは、村上さんが小説家として、多くを観察して正しく描写をし、仮説として丹念に積み重ねた物語を読者に渡し、それを読んだ人(つまり僕)が、その仮説の集積を自分の中に取り込んで、自分のわかりやすい形に並び替えた結果だという。
つまり、物語の中でのフィクションな体験で自らが揺らされ、我がことのようにリアルに「体験」することで「精神の組成パターン」が変わり、それが本当の自分(自己)を知るきっかけになっているのだ。
ただ「本当の自分は何か?」の答えに辿り着くことはなかなかできないし、物語が終わると同時に、その読書の記憶を部分的に留めながら現実世界に戻って生活していくことは大切であるのだが、本当の自分探しが終わらないことは苦しくもあるので、その答えをシンプルに用意してくれる「宗教」のようなものが必要になってくることもある。
そして、その宗教が悪意をもって現実世界への扉を閉め、信者に対し幻想を押しつけてしまうと、カルト宗教が起こした大きな事件のようなことにもなる。
故に、たくさんの小説を読み、自分の中にたくさんの物語を持つことで終わりのない自分探し(自己探求)は同義性を持って継続されていく。
さて、「本当の自分とは何か?」
これを語るのはやはり難しいが、例えば「おいしい牡蠣フライの食べ方」について多くを観察し自分の言葉で語ることは、自己を表現することであり、本当の自分を見つけることはできないにしても、それがどこかにあることを感じることができるかもしれない。
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