もう間違ったリトリートをするのはやめにしませんか?
今、出ている「WIRED VOL.48」、とても面白かったです~
たまたま、図書館で「暇と退屈の倫理学」という本を借りていて
この本の著者である、國分功一郎さんが対談をされていて、ですね
(こういうのを、セレンディピティっていうのか)
以下、「WIRED VOL.48」より・・・
例えば、学校や職場に通うことになった。
それは自分の棲み家からある場所へ
移動することを意味するわけですが、
これは目的をもった移動ですね。
学校に行かなきゃいけない、
職場に行かなきゃいけない、と。
で、この通勤経路のなかで
自分はどんなふうに過ごそうかとか、
学校の帰り道にどこを見ながら帰ろうとか、
これくらいの時間がかかるけれど、
どんなふうに過ごそうとか、
実はそこにいろいろなクリエイティヴィティが
発生してくる。
単に棲み家と職場を往復するという以上の
意味がたくさんある。
同じ通勤・通学経路をたどっていても、
人が経験するものはそれぞれまったく異なるわけですからね。
だから生きているということ自体が、
その人なりに、システムや目的から漏れ出る----
あるいはそれには絶対還元できない----
逃走線を幾重にも引いていることではないか。
逃走線を引く余白がなくなってしまったら、
人間ははすごく息苦しいし、
いままさにその意味で苦しくなっているからこそ、
ヴァカンスのような意味での大きなリトリートが話題にも
なるものでしょうが、
ミクロなリトリートというか、
日常における無数の逃走線こそが実は大事だし、
それを自分なりに引いていくことが
この世の中に棲んで生きていくことなのかなと思いました。
ここまで。
なるほどなぁー
通勤経路だってクリエイティブに創作してしまう、
リラックスできたり、好きなことに触れる時間として
もちろん準備も必要かもしれないけど
逃走線がいくつかできると
本当に人生を楽しむ、いつでも楽しむって
生き方も見えてくるかもしれない・・・
・・・満員電車でスマホでマンガ読んでる人がいるけど
それもリトリートのひとつなのかも。
この「アナザースカイ」はとても共感いたしました~