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【百年ニュース】1921(大正10)12月29日(木) 政治家の林有造が死去,享年79。土佐藩士。1877(明治10)西南戦争に呼応し,陸奥宗光と共謀して土佐で挙兵を企てるが露見し捕縛された(立志社の獄)。出獄後は自由党結成に参加。衆議院議員当選6回。第一次大隈内閣逓信大臣,第四次伊藤内閣農商務大臣を歴任。
政治家の林有造が高知県幡多郡宿毛町(現宿毛市)の自宅で死去しました。享年は79歳でした。
林有造は土佐藩士。1842(天保13)年に土佐藩安東家の家臣岩村英俊の次男として生まれ、幼少時に林茂次平の養子となりました。岩村英俊の妹、岩村袖崎は竹内綱の母になりますので、林有造は吉田茂の伯従父ということになります。
林有造は戊辰戦争に際し土佐藩の軍事リーダーである板垣退助の配下として各地を転戦。維新後は初代の高知県令に就任しました。
1877(明治10)年の西南戦争に際しては薩摩軍に呼応し、陸奥宗光と共謀して土佐で挙兵を企てましたが、事前に露見し捕縛されます。これを立志社の獄と呼びます。出獄後は自由党結成に参加し、一貫して板垣退助の最側近として行動を共にしました。
1877(明治10)年2月15日、西郷隆盛を中心とする薩軍約1万4,000名が鹿児島を出発、西南戦争が始まる。
西南戦争の際に去就が注目されたのが、土佐藩兵を率い、戊辰戦争で活躍した板垣退助の動向である。板垣が立志社など高知の反政府勢力を率いて挙兵し、西郷に呼応するかどうかが戦局の一つの焦点となっていた。そして、西南戦争で板垣が挙兵するか否かは、以後の自由民権運動の展開にも直結していた。(中略)
2月14日、板垣は後藤象二郎、林有造や、書生として板垣邸に居住していた植木枝盛とともに東京を出発、まず大阪に向かった。その翌日に西南戦争は始まるが、後藤は途中で京都の三条・木戸と連携を求めて会談しようと考え、板垣も同伴しようとするが、林が板垣を引き留めた。
このとき林は、これまで板垣らの建議が実行されず、政府と方向性も異なると指摘し、むしろ政府を転覆して、自らの目的を達成すべきであると板垣に主張する。さらに、林は板垣が三条や木戸と面談するのは名義や便利がなく有害であるとし、自らが京都に赴くと述べたのである。(中略)
一方、林は6月3日に700~800名による挙兵と大阪城奪取計画を提案する。板垣は少数精鋭の挙兵ではなく、銃器3,000丁を購入したうえで大挙挙兵すべきであるとし、林の大阪城奪取計画を抑えた。板垣はこの理由について、林らが斃れれば、自分一人では何事も行うことはできないからだと大江卓に語っている。これはおそらく板垣の本音であろう。
1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙以来、衆議院議員の当選は6回を数え、第一次大隈内閣の逓信大臣、第四次伊藤内閣の農商務大臣を歴任し、1908(明治41)年に政界を引退したあとは、故郷の宿毛で余生を送る一方、実業により郷里の発展に寄与しました。
林有造の次男、林譲治は1889(明治22)年の生まれ。京都帝大から三菱倉庫を経て、1923(大正12)年に宿毛町長、1927(昭和2)年に高知県会議員、そして1930(昭和5)年には高知県選出の衆議院議員となり、立憲政友会鳩山派幹部として活躍しました。
戦後は第1次吉田茂内閣で内閣書記官長に就任し、自由党幹事長の大野伴睦とともに吉田内閣の屋台骨となり、続く第2次・第3次吉田内閣でも副総理兼厚生大臣となり吉田を支えました。1951(昭和26)年には衆議院議長に就任。1960(昭和35)年に享年71で亡くなっています。
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2017(平成29)年に林有造と林譲治が暮らした林邸は宿毛市に寄贈され、歴史観光施設「宿毛まちのえき林邸」として生まれ変わりました。連続する大きな座敷のほか、客座敷や客席のための「月見の間」もある広大な邸宅です。幡多地域の自由民権運動の本拠地として、また近代日本の政治を支えた活動拠点として貴重な建築物です。
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