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【百年ニュース】1920(大正9)10月20日(水) 大杉栄が密かに大船駅から列車に乗り日本を脱出,上海に向かう。警察の尾行をまくためトレードマークの山羊ひげをそり落とし変装。9月の演説会での公務執行妨害で在宅起訴中。10月25日上海着。コミンテルン極東社会主義者会議に出席。

「出発を前にして近藤憲二が打ち合わせに来訪。彼は新橋駅で偶然、やはり大杉を訪問する信友会の桑原錬太郎と同じ列車に乗り合わせ同行してきた。大杉の上海行きは、内密のことなので、まずいなと思いつつ用件を聞くと、惨敗した正進会ストの経過報告を書いてもらうと言う。忙しくて駄目だろう、と近藤は思ったが、ともかく一緒に来た。大杉は早い夕飯をすませて、トランクに手回り品を詰めているところである。桑原が困ったような顔押して用件を言う。」大杉豊『日録・大杉栄伝』社会評論社,2009

近藤憲二

「よし、では手っ取り早く内容をいってくれ」私(近藤)はいささかあきれた。いま出発しようというまぎわに、面倒な報告を書こうというのだ。K(桑原)は大杉に負けぬ吃りで、争議の経過をこまごまと話した。大杉はひと通り聞き終わってから書斎へひっこみ一時間あまりして出てきた。「これでいいか読んでみてくれ」そういって、また書斎へひっこみ、こんど出てきたときには、いちばんの特徴である山羊ひげをそり落としていた。もっとも簡単な変装をしたのである。この報告書は正進会の機関誌『正進』の当時のに載っている。引き出して読んでみるといい。名文だ。そして近藤が門前の尾行を引きつけ、トランクを持った桑原と大杉は鎌倉ではなく大船から汽車に乗って、無事に脱出する。桑原はこのときのことを誰にも話さなかった。近藤憲二『一無政府主義者の回想』平凡社,1965

1920(大正9)年10月の大杉栄の上海渡航につき,のち社会主義者の山川均が下記の通り振り返っている。「この頃すでにコミンテルンの代表が、極東に派遣されてきている噂はあったが、我々にはどうもはっきりしなかった。得体の知れない第三国人がやってきて、ただ遠回しに上海へ行ってみないかというような誘いをかけられても、うっかり乗れないわけで、それでなかなか連絡がつかなかったわけです。そんなことは一、二度あったでしょうが、正式な申し入れを受けたことは一度もなかったです。堺さんのところへも無論行ったでしょうが、堺さんもいい加減に聞いていたので、大杉のところへ行ったのです。彼はかなりの冒険主義だから、それなら俺が行ってやるというわけで、上海に出かけていくらかの運動資金をもらって帰ったのです。これが連絡のついた最初です。その時には日本共産党をつくれと言うような話はおそらくなかったろうと思う。くわしいことは聞かないのですが、大杉はバリバリのアナキストですからね。しかしコミンテルンの最初のやり方は、誰でもいい、一番初めに会った人に金をやって何かやらせる。そのうちに適当な人をつかめば前の人は捨てて乗り換える、こういうやり方ですね。」『山川均自伝』岩波書店,1961

堺利彦山川均大杉栄

山川均

山川均2

「コミンテルンは1920年に、上海のフランス租界に極東ビューローを設置し、ボイチンスキーという工作員を派遣してきた。日本、中国、朝鮮などに共産党を組織しようとはかっていたのである。21年に陳独秀、毛沢東ら12名を集めて中国共産党は設立されたが、日本に対する工作は少しもたついた。はじめに接触した相手であるアナキストの大杉栄は、金(2,000円)をもらっただけで、共産党を作る気など毛頭なかったからである。」立花隆『日本共産党の研究(一)』講談社文庫,1983,51頁

グリゴリー・ヴォイチンスキー

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