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【百年ニュース】1920(大正9)9月1日(水) 松本重治が東京帝国大学法学部に入学。松本は同盟通信社上海駐在員時代に西安事件(1936)をスクープし国際的なジャーナリストとなる。汪兆銘工作にも関与。戦後は吉田茂のブレーンとなり、のち国際文化会館理事長。父は実業家松本枩蔵、母の光子は松方正義四女。
大学の講義でいちばん楽しかったのは,末弘厳太郎先生の民法と,高柳賢三先生が英語で行われた随意講義の法哲学史。
卒業のころ『資本論』を英語で読みかけていたが,正義感を刺激されただけで,あまり尖鋭な問題意識などはもっていなかった。
ただ,官禄を食むことはしなくない,会社や銀行なんかにも入りたくないというような気持から,自由職業というか,フリー・プロフェッションズとかいうものを漠然と将来の方向として考えていた。
弁護士とか,新聞記者とか,大学講師とかを夢見ながら,その準備のためにはもう少し勉強させてくれと父に頼み込んで,大学院に籍を置いた。
(中略)末広先生は,私に「君は資格がないのだが,諸君の了解を特別に得ておくから,一緒に昼飯を食べることにしたらどうだい。蝋山政道,我妻栄,木村亀二,平野義太郎などの諸君がいるが,みんな,本をよく読んでいる人たちばかりだから,一緒にめしを食うことが何か君の研究の参考になるだろう」と親切にいわれた。
私も学者の卵の末席を汚した恰好で,毎日昼はそういう助教授,助手などと一緒にめしを食うことになった。
ただ,助教授連中も助手連中も,誰も新米の大学院生の私などを相手に,ゆっくりと話をしてくれるというような暇はなく,みんな自分の大きな机の上に,正面と左右両側にうず高く本を積み重ねて,それをどしどしと読破していくといふうな人ばかりだった。
いちばんめしの食い方の早かったのは蝋山さんで,十分間以内に食ってしまって,あとは知らん顔をして,すぐに本を読み続けるというような恰好だった。
松本重治『上海時代 ジャーナリストの回想』中公文庫,1974-75
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