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【百年ニュース】1921(大正10)3月30日(水) 東京日日新聞に小売店従業員の待遇改善を求める社説が掲載される。大正期には労働運動が盛り上がり,工場労働者の待遇改善が進んだ一方,小売業は旧態依然とした丁稚奉公の延長で悪待遇。閉店時間と休業日の規定すらない店も多く,長時間労働が一般化していた。

労働運動が盛り上がった大正期においても、小売業に関しては江戸時代と大して変わるところのない丁稚奉公型の就業がなされていた。下記は東京日日新聞の社説である。

店員の待遇 休息時間の問題

輓近(最近*)労働問題がやかましくなって以来、我が国の労働状態が著しく改善されたことは事実である。が、ここに旧態依然たるものがひとつある。すなわち小売店の就業者がそれだ。彼らの地位も、仕事ぶりも、すべて時代思想に相反している。

今日我が国における小売店主と店員との関係は、家族制度を超越して、むしろ主従の関係である。店員は早天より夜半にいたるまで、物質的給与を度外視して、店主または店主の代表者すなわち番頭の命令のもとに営々として働いている。しかして彼らの唯一の希望は、一定の年期を勤め上げたうえに、のれんの分与を受けて独立することであるけれども、しかもそれですら、実は十中の八九は店主の意思によりて自由に左右せらるる状態である。かれらの多くは習慣上店主と同一家屋内に起臥し、常にその厳重なる監視のもとに生活するので、普通労働者のごとく、同人組合を組織して、生活の向上のために、運動を起こすには甚だ不便である。したがってたとえ彼らのうちに時代思想に目覚めておる者があるとしても、ひろく仲間を糾合して、その要求をひっさげて社会に訴えることが出来ない。その地位は誠に同情すべきものである。しかし彼らとて、いつまでもかかる状態に甘んずるものでなく、またいつまでもかかる状態に打ち棄ておくべきものではない。すみやかに何とか始末をつけてやらねばならぬ。

今これを英国の法規にみるに、小売店主はその店員に対し、日曜および銀行休日に休暇をあたえるほか、毎週すくなくとも1日は午後1時半以後、店員を使用することを禁じている。女子店員に対しては、特に、簿記台の背後、もしくはその他適当の場所に、店員3人に対し1個を下らざる割合をもって、イスの用意を命じてその休憩に便じている。なお一般原則として食後20分の休憩時間を規定し、昼食を店内またはその付属場内において取らざりし場合には、食事時間を1時間延長し、就業時間が午後4時より7時にいたる時間を含む場合には、30分を下らざる茶の時間を与えることすらも規定している。英国ではかくの如く十分なる休憩時間を店員に与えているため、年少者も、閉店後に夜学校に出席して新しき精力をもって勉学に従事することが出来、その力量人物のいかんによって、よりよき職業を得て、個人として進歩すべき機会を捕えることができる。しかも現在わが国における如き制度では、小売店員の大部分は、最も大切なる青年時をいたずらに店主のために犠牲に供するため、いざ独立して何か事業を経営しようとしても、策の出づるところを知らざる有様で、結局旧店主の御用を勤めるようなことになってしまう。

小売店員の生活改善の第1点は、閉店時間ならびに休業日を規定することである。英国では、滋養飲食物の販売、旅行者に対する自動車、飛行機およびその付属品の販売、新聞および雑誌の販売、獣肉、魚肉、牛乳、クリーム、パン、菓子、果物、野菜、花卉(かき)、その他腐敗しやすき物品の販売、煙草および喫煙用具の販売、停車場プラットフォーム内またはその付近における書籍類の販売、薬品および医療用具の販売、その他特に許可を与えたものを除く小売店は、日曜日はもちろん、その他毎週1日午後休業することとし、日々の閉店時間は7時より遅れざることとしている。わが国でも今ただちに小売店の日曜休業を実行し得るかどうかは疑問であるけれども、夜間の営業はこれを休止するも、一般民衆のこうむる不便は比較的僅少であろう。小売店主といえども、一般的に夜間の営業を禁止すれば、これがために損失をこうむるべき理由がない。しかして店員はこれによりて、彼らの進歩のために適当なる時間を得ることとなる。吾輩は、当局よりもむしろ一般小売店主が、自己の発意によりかかる規約を作成して、店員の幸福をはからんことを望む。

東京日日新聞 1921(大正10)年3月30日

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斎藤修(2006)によれば、大正時代の商家の奉公人の状況は下記のようなものであった。大正期の自由な空気を謳歌していた長谷川時雨のような女性の目からは、商家の奉公人たちが閉じ込められた囚人のように見えていた。

商家の奉公人は,イエの時間規律の下にあった未成年者が他の商家世帯(実態は会社組織にかなり近い)に移籍したところの存在である。

彼らは自らの世帯をもたない,住込の身分であったがゆえに,そこではイエの場合より直截に組織の論理が働いていた。

それは丁稚の期間で終了したのではなく,最長で 30 代半ばまでの長さとなった手代の期間においても同様であった。

このような制度の下では,奉公人は四六時中管理されていたといっても過言ではない。

実際,明治初年生れの女流劇作家長谷川時雨は,その生活を「お店ものの奴隷生活」と呼び,呉服問屋大丸の江戸店について次のような回想を記している。

「震災の幾年か前,裏の方から妓楼の窓を見たことがある。そこにも金網が張ってあった。娼妓の逃亡を怖れてだといったが,それより幾年前,帝都の中央の日本橋に,しかも区内のめぬきで中心点である土地ゆえ,日本国の中心といってもよい場処の大呉服店に,そうした窓が,しかも一丁の半分以上をしめて金網が張りわたされていたという事実がある。それはあたしも子供心に知っていた。盗品をおそれるのだといったが,それならば台所の窓にまでしなくってもよいはずである。外からの盗人を怖れたのではない 。」

長谷川の「娼妓」や「奴隷」という対比が妥当かどうかは別として,厳しい時間管理は他の大店でもみられたことであった。

斎藤修「農民の時間から会社の時間へ : 日本における労働と生活の歴史的変容」『社会政策学会誌』2006年15巻

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現在でも「ブラック3業界」として、小売り業、不動産業、各種サービス業があげられる。もちろん大正時代とは比較にならないほど、労働法の整備も進み、格段に待遇が改善されているはずだが、業種として構造的にブラックな働き方に流れやすい体質はあまり変わっていないようにも見える。


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吉塚康一 Koichi Yoshizuka
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