【百年ニュース】1920(大正9)10月8日(金) 西園寺公望が原敬首相を訪問。6日(水)山県有朋は小田原から上京。7日(木)西園寺は山県訪問,その様子を原に語る。山県は原内閣の継続を望む。次期枢密院議長は清浦圭吾。今後2年程で山県は死亡または老衰し山県閥勢力は減退するとの意見で一致。
「西園寺来訪、昨日山縣に会見せりとて談話の要領は、今回山縣の上京用向きは皇太子殿下御洋行の件、および帝室御財産処理問題等にて、ちょうど平田東助も列座にて少々都合宜しからざりしも、談話の機会を得たるにより、原は明らかに申し出たるにはあらざるも、辞職したき意志あり、国防問題をはじめ在野当時唱道したる事項も大体緒につきたれば、この際辞職したき趣なりと言いたるに、山縣は原は漸進主義をとり、あたかも予と意見を同じうし、また国防問題等も解決したり(この辺の語気は極めて熱のなき言い分なりという)ゆえに今頃辞職すと言うは反対なりと(語気極めて明瞭にて力ありしと言う)この言より察するに、山縣は真実内閣の更迭を望むにはあらず、決して表面的の言辞とは思われざりしなり、而してまた自分のこの談話をもって探りを入れたる様に感じたることも之なしと言うにつき、余は近日面会する考えなれば、そのとき何か言いだすかも知れず、とにかく面会してみるべしと言い置きたり。
西園寺の談に、山縣は枢密院議長を辞したきにつき、後任を引き受けくれずやと言うにつき、病躯断りのほかなしと言いたるに、内大臣たることは如何と言うにつきそれもお断りのほかなしと言いたれば、山縣は独語様に、清浦副議長を昇進せしむるのほかなかるべきやと言いたるは、あるいは清浦を昇進せしむる際に異議を起こさざるようにする伏線なりしも知れずと言うにつき、余はその通りならん、結局清浦を議長となし、平田を内大臣となすの胸算ならん、かくて子分に位地を与え、自分は間接に指揮するつもりならんと言いたれば、西園寺も同感にて、すなわち大御所たるの意思ならんと言えり。余は山縣右様、家の子郎党をもって枢府および宮中を占領するも、彼の没後はすなわち四分五裂せん、困ったものなりと、西園寺これに対しその通りなるが、山縣没後宮中のことは如何にせば可なるや予め考慮し置かれたしと言う。
余はもっともの次第なり、山縣は如何に老耄せずというも何となく老衰を覚ゆ、今後まず二年ならん二年たたば死せずとも勢力著しく減耗せんなど物語れり。西園寺言う、山縣はとにかく表面に都合よきことを言うも、裏面において非難し誠意人を助けるの雅量なき人なれば、他日の伏線にもならんと思い、中村宮相のごとき既にその職に就かしめたる以上には、御同様十分にこれを援助せざるべからず、これ必要のことなりと言いたれば山縣は全くその通りなりと言えり。」『原敬日記』1920年10月8日条
なお山県有朋は今回の上京中,皇太子裕仁親王と婚約中の久邇宮良子女王の色盲問題の調査と婚約解消にむけ具体的に動き出す。
10月15日には皇室経済会議で三元老が集まり山県がこの議題を取り上げると「皇室財産会議において松方,西園寺両元老と会合せるを機とし右の次第を開陳したるに,松方,西園寺もかかる病患の遺伝する事はもとより不可」となる。元老の意向をうけ,中村雄次郎宮内大臣が侍医寮に調査を命じ,眼科専門の侍医寮御用掛保利真直が調査にあたった。報告書の概要は11月上旬に伝わり,11月9日に三元老と山県腹心の平田東助宮内省御用掛が山県私邸で会合し婚約内定取消で一致した。(宮中某重大事件)
「この保利意見書は,従来の研究では色盲事件秘録に依拠して,10月11日に宮内大臣に提出とされてきたが,三元老が宮相に調査を命じたのが10月15日だとすると,10月11日という日付では前後関係のつじつまがあわない。婚約解消に反対した東宮御学問所御用掛杉浦重剛の活動を記録した辛酉回瀾録では,保利意見書は11月11日提出とされているので,こちらの日付を採るべきであろう。」
永井和「倉富勇三郎日記研究」平成 20~24年度日本学術振興会研究成果報告書,平成25(2013)年3月,p102
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