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【百年ニュース】1922(大正11)年1月9日(月) 自由民権運動家の竹内綱が死去,享年81。土佐藩士。板垣退助とともに自由党を結成。衆議院議員。長男の竹内明太郎は小松鉄工所(現コマツ)創業者。五男茂は盟友の実業家吉田健三の養子となるが,これがのちの吉田茂首相。当時は在英大使館附一等書記官だった。

自由民権運動家で実業家の竹内綱たけうちつなが死去しました。享年は81歳でした。長男の竹内明太郎めいたろうは小松鉄工所(現コマツ)の創業者。また五男茂は内閣総理大臣の吉田茂です。

西南戦争まで

天保10年12月26日(1840年1月30日)竹内綱は土佐国幡多郡宿毛村で土佐藩家老山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣、竹内庄右衛門吉管の子として誕生しました。

戊辰戦争では北越や奥羽各地で戦い、維新後に後藤象二郎の引き立てにより大阪府少参事や大蔵省六等出仕をつとめましたが、1874(明治7)年に後藤象二郎主宰の蓬萊社から高島炭鉱の経営を任され実業界に転じました。

1877(明治10)年の西南戦争においては、西郷軍に呼応する立志社に長崎から武器提供の便宜をはかったとして禁固1年に処されました。

6月以降、西郷軍に呼応しようとした高知人および関係者が相次いで捕縛され、25名が大審院の判決を受けた。これは「高知の大獄」と呼ばれ、1878(明治11)年8月20日、21日に量刑が言い渡されている。挙兵計画における首謀者の林有造、大江卓らは禁獄10年、これに関与した池田応助らは禁獄5年、岡本健三郎は禁獄2年、竹内綱は禁獄1年であった。一方、立志社幹部の山田平左衛門、谷重喜は禁獄1年、立志社社長の片岡健吉は西郷軍の状況視察に赴いた藤好静らに100円を貸与した罪により、禁獄100日となっている。なお、和歌山県出身の陸奥宗光も禁獄5年の判決を受けた。(『土佐自由民権運動史』)

中本祟智『板垣退助 自由民権指導者の実像』中公新書,2020,75頁
竹内綱(1840-1922)

五男吉田茂が誕生

竹内綱が獄中の途にあった1878(明治11)年9月22日に、五男の茂が東京神田駿河台あるいは横須賀で誕生しました。母は芸者であったようです。綱は盟友であった実業家の吉田健三(元ジャーディン・マセソン商会横浜支店長)へ男子が生まれた際には養子に出すことを約束しており、その通り生後すぐに茂を養子に出しました。

吉田は、1878(明治11)年9月22日に横須賀に生まれたといわれる。父親が反政府陰謀に加わったとがで長崎で逮捕されてからまもないことであった。竹内綱の14人の子のうち五男としてうまれたが、実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだのである。竹内の次に生まれる子が男子ならば、子のない吉田夫妻の養子にするという取り決めが両者のあいだにあったから、吉田茂は生まれて9日たった10月1日に新しい両親に引き取られていった。

吉田が実母の名前を知らなかったのはありうることであり、そのような事情は吉田の生涯を通じて思い出すのも不愉快であったようである。初期の戸籍は明らかに母「不詳」としているが、吉田の存命中は、竹内の本妻に生まれたという虚構の説が公に唱えられ、出生をめぐる回想のなかでも、吉田は実母に言及することを用心深く避けている。しかし真相は知られていなかったわけではなく、そこから素人的な心理考察が行われるようになった。吉田の内妻は「芸者の子は芸者好き」という見方で説明したと言われているが、これはエディプス・コンプレックス風な手がかりとして興味深く、吉田の場合には特に有力な示唆を与えるものである。

ジョン・ダワー『吉田茂とその時代(上)』中公文庫,1991,33-34頁
吉田茂(1878-1967)

自由党の幹部として

放免後は板垣退助らと政治行動をともにします。愛国社、国会期成同盟で活動し、のち自由党の結成にも参加しました。1890(明治23)年の第1回衆議院銀選挙では高知2区より出馬し当選、自由党土佐派の重鎮として活動します。1892(明治25)年の第二次伊藤博文内閣においては、伊藤首相と板垣退助の連携を実現しました。

竹内綱が無くなったとき、吉田茂は在英大使館附一等書記官でした。そして同年3月には天津総領事となります。

竹内綱の死亡広告
竹内綱の墓(谷中霊園)


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吉塚康一 Koichi Yoshizuka
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