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「勉強の哲学」 千葉雅也 著 文春文庫

この本を読んで、アホな漫才ネタを思いつきました。

@@@ 少年たちのしょーもない会話 @@@

少年A:わてらの乗ってる電車、今60キロで走っとるんやな?
少年B:そうやな。
A:ウワォ〜!
B:びっくりするやないか!けったいな声出しよって!!
A:思いついたんや!もし、ここでわてらが飛び上がったら、時速60キロで鉄腕アトムみたいに後ろに飛べるんやないか?・・・ボケ
B:ほんまや!自分、頭ええなぁ。
B:飛ばんやないけ!・・・ツッコミ
A:ほんまや。同じところに降りてまう。
・・・
A:ウワォ〜!
B:びっくりするなぁ!
A:思いついたんや!わてらも電車と一緒に動いとるんちゃうか?・・・ボケ
B:けったいなこと思いつくなぁ!自分。

*こうして、物理学の慣性の法則が出来上がったという・・・。



A:慣性の法則に従ごうたら、もし、電車の中で80キロの球を投げたら、140キロや!
B:でも、大谷さんにはなれんな。・・・ツッコミ
A:新幹線で投げたら、400キロ超えや!大谷さんより速いでぇ! ・・・ボケ
B:本骨先生が「宇宙で一番早いものは光」言うとったけど、光の速さで走って、光を発射したら、超光速になるんか!?・・・ツッコミ

*二人は、本骨先生に質問したのですが・・・ 


B:本骨先生、なんで怒るんやろ?「どうして光より速くちゃいけないんですか?」と聞いただけなのになぁ?
A:「そう決まっとるんや!そんなアホなことばっかり言うとらんで、しっかり勉強せい!」やもんな。ほんまにポンコツや。
B:光の速度で走って光を発射してもやっぱり光の速度を超えられんってことやろ?・・・ツッコミ



A:ウワォ〜!
B:なんや、また!
A:そうや!光の速度で走ると、きっと時間が止まるんや!・・・ボケ
B:相変わらず、アホやなぁ。しかし、それちょっとおもろいな。光の速度までいかへんけど、それに近い速度で走ってたら、どうなるんや?・・・ツッコミ
A:時間がだんだんゆっくり進むようになるんちゃうか?・・・ボケ
B:それや!きっとそうや!本骨先生に聞いてみよか?
A:ダメや、あいつの頭の中は、時間が止まっとる。・・・ボケ
*こうして、相対性理論が作られた。

・・・お粗末さまでした。

著者によれば、「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。p.175」です。これまでの自分の世界観を変えていくこととも言えるかと思います。

著者は、それを「単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。  いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが、第二段階。  しかしその先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。(p.13)」と表現しています。

今は、「バカ」だけど、やがて「来たるべきバカ」になっていくわけで、それを可能にするのが勉強だと言うわけです。

あらゆる環境には、「こうするもんだ」という行為の「目的的・共同的な方向づけ」が存在するわけです。それを著者は、環境の「コード」と呼んでいます。そして、環境の「コード」は絶対的なものではないのです。

そして勉強は、ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアによって前に進んでいきます。根拠を疑って、真理を目指すのがアイロニー、根拠を疑うことはせず、見方を多様化するのがユーモア(p.176)なのです。

しかし、ツッコミが過剰になると、訳がわからなくなり、しまいには「えいやっ!」で根拠なく物事を決めざるを得ないなんてことにもなりかねないのかと思います。討論の際にツッコミばかりで、結局じゃんけんで決めるなんていうのも、そういうことなのかと思います。

ボケが過剰になると、あらゆる言葉がつながって、言葉がトータルに無意味になったり(p.85)、非意味的形態としての言語をもてあそぶ、強度的で享楽的な語り(p.91)になったりします。

それを防ぐのが、自分の現状をメタに観察する、つまり俯瞰するということなのかと思います。

本当の勉強は、ボケとツッコミの連続であり、楽しくワクワクするものなのです。大人たちは、それを子どもたちに伝えていかないと、子供は勉強しようなんて思わないでしょう・・・子どもたちは、大人のことをよくみています。ごまかしは効かないんです。子どもたちからの質問に答えられなくてもいいんです。そんな時は、一緒に考えたらいいじゃないですか。それは、お大人にとっても、「勉強」になるでしょう。

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