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人は人では埋められない。
では何をもってして埋めるかと言えば、
如何なるものをもってしても、それは埋まらず、
ただ純然とした「埋まらぬもの」であるという事を了解しないといけない。
埋めても埋めても、その内容物はボロボロとこぼれ落ちる。
そんな場所が、人間には確かにある。
それは人間で有る以上、避けることは出来ない。

では、手が2本で、足が2本であることに嫌悪を抱いたことはあるか。
おそらく無いはずだ。
それは自分の手足がどちらとも左右に一対備わっているという実際を、
却却早い段階で了得するからだ。
通常、常時2足歩行をし、両の手で道具を扱う我々は、
それを致さない生命体から見れば、奇怪でしか無いはずだ。
しかし尚早にそれらを知覚している我々は、それに何らの疑念も感じない。
それならば何故、手手足足同様、人間としての共通事項である、
人間としてアプリオリな項目であるはずの
「埋められない穴」の存在を、我々は畏怖し、奇怪に侖い、逃避を図るのであろうか。

それは、その「穴」の了得には通常、かなりの時間を要するからである。
おそらくだいたいは10代中頃、いわゆる「青年期」ごろに、
「それ」とのエンカウンターが発生する。
自我といわれるものが発達し、自分の意志を持ち、自分の言葉を有し始めた、
その段階での遭逢であるからして、
何も有していなかった段階で理解していた「対の手足」よりも、
かなりの違和を感じることになる。
アプリオリなものであるにもかかわらず。
しかし考えてみて欲しい。
「穴」は人間存在の共通的了解事項でありアプリオリなものであるという旨は
すでに述べたが、それは無論に「手足」にも当てはまる。
すると、この双方に何の違いがあるのかが分からなくなる。
ではなぜ、我々は手足を畏怖せず、穴を憂惧するのか。
それはただ純然に「発見の時機の差異」。
ただただ、それのみである。

「手足」と「穴」の違いが、発見のタイミングの差異にすぎないのだとするなら、
それならば、我々はその「穴」を恐れ嫌う必要など無くなる。
しかしそれでも尚、私たちは穴を埋めるべく、あらゆる物事を執り行う。
そしてそうしている間に、穴の存在を忘れる瞬間がある。

何かに没頭したり、集中したり、買い物をしたり、デートをしたり。
そういった沙汰を惹起する事で、我々は自身の穴の視認を面忘する。
しかし、それはただその「最中」に「それ」を「忘れていた」という、
ただそれだけの事である。

「穴」同様、我々は「手足」の存在すらも忘れる瞬間がある生物である、
ということを理解したい。
例えば我々は、まれにモノの角に足の小指をぶつける事がある。
誰もが経験しているはずだ。
あの現象はただ単純に「タンスの角に小指をぶつける」という事ではない。
我々は、モノの角に小指をぶつけるその瞬間に、
その一瞬刻に「小指の存在」を忘れたがゆえ、
角に小指をぶつけてしまうのである。小指の認知を面忘していたのだ。
しかし、タンスの角に足の小指をぶつけたからと言って、
足はおろか、小指すらも消えて無くなったりはしない。
残る疼痛にただ耐えるのみであり、
「なぜ小指をぶつけたのか」という後悔を冷罵するだけだ。

手足の存在も、「穴」の存在も、アプリオリなものであると前述した。
手足も穴も同属であると言えるとも。
また、「穴」の存在を面忘する瞬間がある、とも前述した。

それであるならば、穴の存在の忘却からの復帰に伴うものも、
「疼痛」と「後悔」なのである。
いくら心の穴を埋めても埋めても、ただただ痛みと後悔が増すばかりなのだ。

手足がツバサに変わることは、生涯にかけてただの一度さえも起こり得ない。
それと同様に、心の穴がふさがることも、生涯にかけて一度きりさえ起こりはしない。
人の穴は何を持ってしても塞がらない。
我々はそのようなものを持ってして、ただ生まれ、そしてただ死ぬ。

ああ、足があるまま自分は死ぬのか、ああ、手があるまま自分は生きるのか、嫌だなぁ。
などとは通常は思わない。
それならば、「ああ、この穴は塞がらないのか、、、まぁいいか」
そう思いながら生きるのも、一興であると考えている次第である。

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