Yoshiyuki Gou

カメラマン、思想家、ベーシックインカム肯定派。 趣味でアクセサリーの製作など。

Yoshiyuki Gou

カメラマン、思想家、ベーシックインカム肯定派。 趣味でアクセサリーの製作など。

最近の記事

ライフ・イズ・超ストレンジ

人生はあまりに不可思議だ。 しかしそれは、ある一つの球体が、 鋭利なものの先端にただ乗っており、 その球体がどちらかの方向に向かって転げ落ち、 また次なる先端に乗る、 この単純作業の繰り返しが、 とどのつまり人生と呼べるものなのかもしれない。 我々はただその単純な作業の反復に、 「不可思議」という名称を付与し、抗ったり、屈したりしているだけなのだ。 何も気にすることはない。 ただ転がる。 人生とは確率の逕路つまりそのものではなかろうか。 それならば屈せず抗わず。ただひたす

    • 人は人では埋められない。 では何をもってして埋めるかと言えば、 如何なるものをもってしても、それは埋まらず、 ただ純然とした「埋まらぬもの」であるという事を了解しないといけない。 埋めても埋めても、その内容物はボロボロとこぼれ落ちる。 そんな場所が、人間には確かにある。 それは人間で有る以上、避けることは出来ない。 では、手が2本で、足が2本であることに嫌悪を抱いたことはあるか。 おそらく無いはずだ。 それは自分の手足がどちらとも左右に一対備わっているという実際を、 却却早

      • 死、デッド、デス、

        極楽はあるのか、死後の世界はあるのか、そもそも死ぬとどうなるのかということを、昔からなんとなく考えていて、未だにふと考えるときがありまして。 たとえば私がまだ卵子と精子だったころ。 私に意識や意志は存在せず時間も存在せず、 生まれるか生まれないかというゆらぎがただそこに在っただけです。 そしてすなわち死とはそのような形態に戻っていく様を言うのだろうとおもっております。 ただしこの場合は生まれる前と違い、ゆらぎが持っているような「確率性」は存在しません。 死は純粋な無であ

        • アンチポリコレ

          ポリコレに配慮するゲームが増えている。 最近はキャラクリエイトをするときに性転換を施した男(あるいは女)を作れたりするらしい。 しかし、なぜポリコレ界隈の人はLGBTQ、人種、ルッキズムにばかり気を取られてしまっているのだろう。 たとえばキャラクリで 「筋ジストロフィーで物語が進んでいくごとに徐々に動ける体の部分が少なくなる」 「躁鬱でめっちゃ調子がいい時と非常なまでに調子が悪い時がランダムに発生する。たまにいきなり自殺する」 「IQが極端に低くてNPCが言っている事が

        ライフ・イズ・超ストレンジ

          担保されるもの

          過去や未来という概念の上に 私という感情が成立すると仮定するなら 感情とは私の事である。 しかし概念は固定化されない。 物体的なものでは無く。 あくまでも流動的な存在でしかない。 それであるならば、感情とは不成立な事象であり、 つまり私という物体も不成立なのだ。 しかし不確定なものが今ここに確定的に存在しているというこの感覚は、 すなわち今の確定から発生したものであるという事の証明である。 未来や過去は私を証明できず、 私を私としての確定が可能な担保は今以外に存在しないという

          担保されるもの

          過去を変える事は可能なのだろうか

          頭の中の記憶はだいたいに於いてその一部分はすでに輪郭を失いかけている。 何が正しくて何が正しくない記憶なのか定かに出来ずにいる。 それらの事象の一つ一つは「過去にあったかもしれない何か」へとすでに変容している。 すなわち過去は横顔を喪失した事実とは呼びきれない何某にコンバートが可能である。 では、「過去」と言うその得体の知れないものの中に我々はいつまで囚われ続けなければいけないのだろう。 直積集合体ではないそれらに縋る行為は無意味であり、また無機質だ。 未来は原生生物であ

          過去を変える事は可能なのだろうか

          剥離、分離、罷免、剥奪

          たとえば自分の手に対して、 「これは自分の手では無い」とどれほど強く念じたところで、 それは自分の手でしかない。 自分の手を自分の意識から開放することはできない。 何をしたところで(普通は)自分から分離されることがない手は、 それ自体がすでにアイデンティティである。 アートもそれに近い。 アートとはとても不思議なものでどんな風に装っても、 結局は自分のアートにしかならない。 他人のアートを自分によって表現できない。 そう考えるとアートはさきほどの「手」の感覚に近い。 発語

          剥離、分離、罷免、剥奪

          相対概念

          浮世で起こる全ての事、フィジカル、メタフィジカルなもの、 それらをひっくるめ、あらゆる事象が相対的なものであるとするなら、 唯一の絶対である「死」でさえも、 つきつめて考えれば相対的なものにすぎない。 社会集団で起こるあまりにも膨大な事柄の中の一つである、 「別離」という事物はその事物から派生した「哀惜」という感覚も、 何かしらの相対の結果である。 ではその結果に対偶するものとは何かと問えば、 すなわち「快事」という事になる。 「悲しみ」と「喜び」が本当に対なのならば、

          犬はなぜ人間では無いのか

          もし仮に人類よりも知能の高い生物が現れたとして、 我々はその事に何を持ってして気づくのだろうか。 気づき得る事は可能なのだろうか。 たとえば犬は、人間に対して「自分よりも頭がいい」という 認識を持っているのだろうか。 今、眼前に延びる界は自分が了解した界のみにすぎない。 その認識を超えた領域に参着することは不可能だ。 自分の脳の思考範囲を飛び越えてその先に行くことは出来ない。 今私に見えている世界は私の思考範囲の領分に束縛された世界なのだ。 そして「この生物は自分よりも

          犬はなぜ人間では無いのか

          spectrum

          人間が使う言語には構造的限界がある。 人間様式を十全にカバーリング出来るわけではない。 人のプシュケーはスペクトラムではなくグラデーションであり、連続階調である。 その連続階調である内懐に、断続的構造体的性質をもつランゲージは、 アプローチすることは出来ても、膠着することはできない。 そして、その附着からはみ出たものが、いわゆる「芸術」として、 表現されていくのだろうと思う。 しかし芸術にはある重大な欠点があるように感じている。 問題提起力には長けているが、ソリューショ

          competition

          人間関係で心を患うということは往々にしてよく聞く話である。果たして、実際に患うだけのユーティリティーがあるものなのだろうか。たとえば執拗に自分を攻撃してくる人間があるとする。その事柄に対して、自身はどう振る舞うべきなのか。 攻撃の主な目的は、相手よりも上位に立ちたいという事が主因であろう。なぜ、上位に立ちたいと考えたか。立つことによる利点とは何か。そこには、事柄を軽便に運びたいとする上で、相手からの否定拒絶を喫する状態を回避したく、またそれが重要だと考えるからだろう。人間の

          demarcation line

          人はケダモノであるし、もしかしたらケダモノを超過する 残酷さを持った生物なのかもしれない。 それはナゼであろうか。 ではケダモノではない状態、とは一体何かという所から 考えを初めなければいけない。 今ここにある人間としての暗黙のルールのようなものは 有史以来、様々なトライ&エラーを繰り返し生み出されたもので「あろう」ものであり、それ自体、確固なものであるが やはりそれは所詮「確固とした人間としてのルール」でしかない。 それを叛く事はともすれば非常に容易なものである。 その

          demarcation line