僕は人に成れたのだろうか
昨日の朝、はっと目が覚めてスマホを見ると定時を3時間も過ぎていた。
鳴らなかった目覚まし時計に絶望しながら、上司になんて遅刻の言い訳をするか頭を悩ませ、「アポは飛んでいないか。午前に打ち合わせは入っていただろうか。」などと思考を巡らせながら社用のカレンダーを見たその瞬間。
その感情は沸き起こった。
成人式
昨日は成人の日だった
毎年三連休になるので正月気分が抜けきらない僕にとっては、成人の日が終わってやっと正常運転という節があるし、同時にいろいろと考えさせられる日でもある。
成人式に出て、もう10年近く経つが、今だによくわからないこと。
成人ってなんだろう。日本では二十歳を迎えて、成年と認められる年で、酒が飲める、煙草が吸える、自分で契約関係を結んだりできたりと、何かと自由になるから、支配からの解放って意味が強いのかもしれない。日本と海外の成人の違いはそこにある気もする。
一応、法学部を卒業したので成年と未成年の違いはなんとなく説明できる。一番大きな違いは、当たり前のことだが、"法に守られているかどうか"だろう。
法律を少しでもかじれば分かることだが、未成年はとにかく守られている。なじみ深い所で言えば、やはり殺人を犯しても実名報道されることがない点だろうか。
少年法によって20歳未満、つまり未成年は人を殺めても生きなおすチャンスが与えられる。無事に更生できれば、人生を棒に振ることなく日常に戻れる。
ヤケになって高い買い物をしようが、親が「子どものやったことですから」と言えばなかったことにできる。
一言でいえば未成年は"人ではない"
人でないというのは人間として未成熟で理性的な判断ができないという意味で、乱暴な言い方をすれば法律上はペットと同じような扱いだと僕は思っている。
ペットが首輪をするのは、他人を噛まないように守られているからで、未成年も同じように少年法というリードのついた首輪がついている。だから子供が法を犯せば、ペットの飼い主が責めを負うのと同様、子ではなく親が咎められ、責任をとることになる。
そういう意味では、理性的な判断ができると見做され、支配から解放された自由な地位を手に入れるという日本の成人式の在り方は正しいのかもしれない。
けど、そこには一つの疑問が残る。
成人というのは、字面の通り解釈すれば"人に成って"理性的な判断ができる人間になることだろう。
そう考えたとき、果たして僕は人に成れたのだろうか。
今の僕には理性があるだろうか。未来をちゃんと考えて、自分の行動や発言に確かな理由を持って行動できているだろうか。
自信がない。
確かに一人で生活し、社会に出て金を稼ぎ、常識や規律を気にしながら、周りの人間と自分を比べて身を振るようにはなったと思う。でも本当にそれで理性的な人間と言えるんだろうか。
今の僕はその日暮らしだ。
一日働いてくたくたになって、毎日帰りの電車の中で「死にてぇな」って思いながら虚ろな目でスマホを見て、帰り道のコンビニで買った酒を飲みながら家に帰り、YouTubeを見て気づいたら朝を迎える。
そんな暮らしがずっと続いていって、僕は幸せになれるんだろうか。ずっと続けていって幸せになれないなら、その生活は理性的なんだろうか。
破滅が口を開けて待っているのを分かっていて進んでいくのは、ただの愚行だ。でもその日暮らしを続けていっても何の法にも抵触せず一生を終えられる。
貧困罪や不幸罪という罪は存在しない。貧困や不幸は人が持つ自由だ。
金がないのも家族を持たずに孤独な最期を迎えるのも、ただただ無知と怠惰を自由にさせた罪に対する罰なのだ。法律は無知と怠惰を咎めない。
働いて税金を納める限り、どんな生き方をしても誰も咎めない。
「お前は理性を以てしてその人生を選んだのだ」と。何も言わないことで法はそれを教えてくれる。
話は逸れるが昔、物には理性があるかどうかをカントが論じていたのを思い出した。
石が重力に従って落下する。これは理性的ではない。なぜなら石は重力に逆らう術を持たず、ただ物理法則によって落下することしかできないからだ。だから石が落ちて人の頭を割っても何の責任も取らされない。
僕はどうだろう。明日のことを考えられないわけじゃない。自由な選択の積み重ねが今のこの人生だ。僕は誰にも支配はされていない。だから僕の人生の責任は僕にしか取れない。
僕は人生を終える時に理性的で責任感ある人生を送ったと言えるだろうか。
成人式のニュースを見るたびに人に成りたいと思う。
よりよい明日を迎えるための理性なのだから、明日に繋がる自由な今日を生きたい。
ところで僕がこの時間まで起きているのは明日に繋がるだろうか。
夜更かしの自由には規制をかけたほうがいいと思う。睡眠は義務だ。