見出し画像

ただいま、だからおかえり、という

「君はどう生きるのか?」と問われたとき。

なんだか特別な自分であろうと背伸びするのはどうしてだろう。

より良い自分になりたいと根拠なく願うのはどうしてだろう。

そんなことを思うにつれ、一つのシンプルな答えのようなものに思い至る。

それはつまり、私はただ死なないために生きている。だがそれでいい。ただ生きるということが、どうやら私の存在意義のようなのだ。

浅はかだろうが、軽薄だろうが、卑しかろうが、醜かろうが、かっこ悪かろうが、それらはどうでもよくて、ただ自分が存在することに意味がある、なのに自分ではこの簡単なことに気付けない。けれど、どうしたわけか気付かせてくれる存在、つまり恋人や子供やペットなど、そうした自分がいないと、そこはかとなく生きることもままならないほどに弱い存在がいつしか身近に現れ、もう少しだけ生きてみようかと思えるのだ。

あるいは、なんだか根拠なく応援したくなるような推しの存在を見つけることで、嬉々として生きがい認定し推しの押し付け紛いの活動をはじめてしまう。

ともすれば、自分だけという孤独に苛まれている状態では、ただ生きるということ自体に意義を見いだせず、生き甲斐や、やり甲斐など感じる余地もなく、生きることに前向きになれないばかりか、むしろ生きづらいなんて思ってしまうのだ。

たとえば仏教では、すべては因縁によって縁起すると説く。
まず自分がいて、自分以外があり、自分の行動の結果、自分以外に縁が発生するという説話。
自分がいなければ周りも存在せず、周りがいるから自分もいて、互いに因縁の関係性において成り立っているというもの。

こうして色々と書いてきたけれど、世の中は必ずしも自分にとって都合の良いものではないばかりか単純でもない、自分では知ったふうな言動を心がける一方で、他者については素知らぬ顔で自分の信じる価値観を押し付けがち。

一体どうしてそのような由々しき事態が起こりがちなのか、それはこの世に自分の人生とは切っても切り離せぬ大きなうねりのようなものが確かに存在していて、それに対しひとりひとりの人生はそれぞれ小川のせせらぎのようなもので、生きるうちやがて必ず時代のうねりという大海に呑み込まれてゆくからだ。

広い世界、時代の大海原の只中で、小さな小舟に乗っている無力な自分、方角もわからず小さな櫂でしか漕ぎ進むこともできず、仮に進んだとしても波一つで押し流される。そんな毎日を繰り返す中で生きること自体に摩耗し疲れたって致し方のないこと。

疲れたなら素直に休めばいいだけ、なのにより特別な自分、よりよい生活を望むあまり、もうちょっとだけと無理してしまう。それはまるで、川の流れや波に逆らう行動。

流れにそぐわぬことを続けるうち、なんだか将来への不安感が募り、やがて未来への恐怖を抱きはじめ、ますます気が休まる日がなくなる。気の休まらぬ日々を生きるうちに、生きる意味が分からなくなり、意気消沈する。

沈み込んだ気持では前に櫂を漕ぐことも叶わなくなり、その場で何もできずただ絶望する。その最中、「君はどう生きるのか?」と問われたとして、いったい何と答えられよう。

風の吹くまま、気の向くままに、小舟でこの世界を冒険できればなんて素敵だろう、とそんな風に思いつつ、当たり障りのない答えを返すのだろう。

「世のため人のためお役に立ちたい」と、心にもないことを嘯くのだ。

自己欺瞞と周りに噓を吹聴するために、私は生まれたわけではないとわかっているのに。嘘つきな自分にほとほと嫌気がさしたころ、ふと夜空の月を望んだときに思う。

こんなにも長く大海原を彷徨っていても、月は変わらずに同じ場所にあって、ただ佇んでいる。自己主張するわけでもなく、右往左往無駄に動き回らない。

堂々と夜空に輝く月に思いを馳せるうち、月に自分の内面が確かに映し出される。自分の内に秘められた思いとは、この大海原はまるで私の混迷する思考そのものに他ならない………と。

そしてようやく悟るのだ。

「嗚呼、私はただ生きればよかったのだ」………と。

どう生きるのか? という問いは、実際に生きている姿を晒すということ。答えは言葉で述べるべきでなく、実際に行動して見せるということ。ただ単に自分が今できることをして、ただ今を生きている姿を見せるということだ。

それゆえ、家に帰ってきて、こう言うのだ。

「ただいま」

だからこう返ってくる。

「おかえり」

ただそれだけのことだったのだ。

いいなと思ったら応援しよう!

なすの
ここまで読んでくれたことに感謝。 これからも書くね。

この記事が参加している募集