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人生は愛のシーソーゲーム
男は愛のため、こうしなければ、こうあるべきだと自らを必要以上に律し、周りにもそれを求めはじめる。
女は愛のため、皆と苦楽を共にし続けたいと願い、そうでなければ、そうあるべきだとゆき過ぎた思いを抱き続ける。
男女は人生において互いのその相反する思いをぶつけあうことにより、時にゆき過ぎた愛憎へと昇華したりする。
やがてシーソーゲームの途上、愛の結晶が誕生し、その子は必ずこう思う。
「私が生まれたせいで、パパとママが苦しんでいる」
その様はさながら男女のシーソーゲームの真ん中でゆらゆら揺れるそれだ。
仮に二人が誠の愛にたどり着いたら?
その姿を子供たちは見ているのです。
愛に満ち溢れた幸せで豊かな人生を目の当たりにするのです。
勿論良い影響だけではありません、ぶつかり合う二人から自分だけの得難い気づきも得ているのです。
その時は苦しい思いをしたとしても、未来の自分だけの愛のために起こっていることです。
一方で男女は愛する子供たちから、自分たちだけでは気づけない沢山の学びを得るのです。子供たちは思い通りにはならないし、そうすべきではないと気付けるのです。
自分の子供や家族だけではない。男女がお互いの愛をぶつけ合うほどに、二人の周りはその渦に飲まれていく。周りから沢山の影響と気づきを得ながら
二人のシーソーの上下が激しくなるからである。
でもそれで良いのだ。
男女が共に過ごすほどに、愛しているのに伝わらない思い、すれ違う心、すべてが相反することによる己だけの気づきが待っているのだ。
誰もが思い違うものなのだ。
愛する存在が、自身に本当の自分を思い出させてくれる。
人間はそもそも愚かに生まれるものであること、自らの愚かさに気づけた者こそが賢者であることに。
自身が愚かなのではなく、すべては愛のためであったと気付けるのだ。
愛は確かに存在していることに気付けるのだ。
今現在の過去の、そして未来のパートナーは皆、最愛の人。
最短距離で自分を本当の自分へと導いてくれるかけがえのない存在。
どうか願わくばこの後、その存在へすぐにでもこう伝えてほしい。
「愛している」
そのとき必ず、仮に瞬間的なものかもしれません。でも確かに二人のシーソーが平行になる刹那を感じ取ることができるでしょう。
それこそが愛が存在する自分だけの証明書のようなものであり、愛と自分が存在する理由です。
*
最後に、そもそもシーソーは誰が作ったのでしょう?
もうおわかりですね、
愛を複雑にしているのはいつも自分自身なのだということです。
であれば人生の終わりの時まで、愛を堪能し尽くそうではありませんか。
そしてその姿を私たちに見せてください。
タイトルイラスト
著者プロフィール
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