カメリアコンプレックスと推し活の関係
カメリアコンプレックスとは、か弱いと自分が思い込んでいる存在を庇護したくなる心理。あくまでも、自分の都合や価値観で好ましい相手に歪んだ感情を持つ、そこに相手の気持ちは介在していない。
それでもなお、「もっとこうするといいよ」「少ないけどどうぞ」とお金や物を支援する。結果、応援している相手が成長したり有名になると自分のことのように嬉しい。
地下アイドルを追いかけたり、ヴァーチャルアーティストにドネーション。ホステスやホストに貢ぐ、仮に借金してでも。
我が子の成長にしてもそうだろう。
我が子を思う親心さえも少なからず親のエゴが混在しているのだ。保護者の責任を果たそうとするうちに、いつしか立場の弱い子供から必要とされるのを求めてる。
人から必要とされたい、誰かの役に立ちたい、自分の存在価値を証明したい。自分を表現したくて、存在を証明したくて、生きてる実感をえるため、誰かの役に立ちたいと願う。感謝されたいからといって、困っている人たちを意図的に作り出してちゃ本末転倒。
いいことの押しつけ、それって時には余計なお世話。自分の周りの人々は、いい人になりたい自分のための肥やしじゃない。
本当に自分を必要としてくれる人のために自分は存在しているのであって、自分と関わり合いのない無関係の人にまでいろいろ気を使わなくていい。
そんな暇があるなら、人生という限られた時間を大切にすればいい。
いくつになってもシンデレラ
ことあるごとに悲劇のヒロインを演じがちな人を見かけたことがあるだろう。家庭や学校や職場で、そこら中に偽シンデレラは溢れている。
会社のお局や旦那の実家の姑、それこそ世界中にものすごい数。
彼女たちはどういうわけか、自分なりの正解や正義のために、自分を正当化し自己中心的な言い訳を行う。一度はじめた自分本位な言動はやがて自分の首を絞め、可能性の幅をも狭める。
自力で幸せになっていいのにもかかわらず、あえて不幸せを装い、悲劇のヒロインとしての地位を守り、特別であり続けようとするのだ。
不幸を嘆く彼女たちを慰めようものならもう大変、いかに自分が不幸であるかを滾々と語り続ける。解決策を提示しようものなら逆切れし、かえって話は拗れ長くなるばかりだ。
でもそれも致し方のないこと、なぜなら彼女たちは自分が悲劇の主人公であることを信じて疑っていないから。
王子はもうずっと長いことガラスの靴をもって探し続けているというのに。そうしていつしか、白馬は灰色にくすみ、王子は年老いて互いにすれ違い続け出会えぬままに人生を終えるのだ。
愛別離苦、愛こそ執着
愛することを手放す、愛は必ず執着となるから。
愛さえも手放した先に、自分本来の道が現れる。
誰からも愛されないなんて拗ねてる間は本末転倒。自分を愛していない人の前に運命の相手なんて現れっこない。
将来への不安、孤独への恐れなんて誰にでもある当然のこと。それが人間の世界の摂理に他ならない。それゆえ誰にも依存せず、自分を拠り所とし、他の誰でもない自分自身を応援するのです。自分だけが無条件に自分を応援し続けることができるから。
それには何の労力もいらない、お金もかからない、最も容易な方法。
「そんなはずない! 嘘だ!」って思っている暇があるなら、どんな些細なことからでもはじめればいい。
それこそ嘘みたいに、今までの苦しみから解放されることだろう。
いままで自分を苦しめていたのは、自分だったと気づけるから。
執着の正体こそが、愛だって気づけるから。
だからまずは自分を味方につけないと。
そうして明日からは、自分で自分を推して行け!