ゆらぎの仮想エネルギー
この世界はスカスカだ、というのを聞いたことがあるようなないような。一方で、宇宙はみっちり目に見えない素粒子で満たされているともいわれる。
この世は『有るようで無い、無いようで有る』という、なんだか矛盾したような状態が同時に存在している不可思議な世界なのだという。
つまりは、何かしらの因縁が発生することで、無だったエネルギーが、有エネルギーに転換し現れる、という謎すぎる仕組みが世界にはあるのだとか。
一見すると何もないかのように見えて、実は見えない形であらかじめ存在し、私たちの合図を待っている、そんなご都合主義的な働きが世界には存在している。
時折、私たちが有るはずのない爆発的なエネルギーを発揮する秘密がこれである。世界はどういうわけか極瞬間的な高エネルギーの発生を許しているのである。
普段は薄ぼんやりしているくせに、急にやる気を出す的な、………そもそも世界がたゆまぬ揺らぎの中を存在しているからなのだろう。
そしてどういうわけか、おおよそ信じられないことだが、なぜか私たちの意識がこの世界の揺らぎをコントロールする媒介であるということ。
つまりそれこそが、私たちが日々何気なく思い描いている。
「ああしたい」「こうしたい」である。
むしろ世界は私たちからの合図がなければ、ただのんびり揺らいでいるだけの存在というのは、少し言い過ぎかもしれない。
人生の浮き沈みを立体的な視点で観測する
人生における浮き沈みについて、少しだけ思い違いをしていた。といいますのも、人生は一定の範囲で浮き沈みを繰り返すのではなく、このように少しずつ上昇しているようにも思えるのです。
また次のように、人生を俯瞰して上から見てみると単純な浮き沈みだけではなく、このように右往左往していることにも気づけます。
さらに平面ではなく、立体的に人生に起こる事象を捉えると螺旋状に上昇しているようにも感じられないでしょうか。
心の状態を振り子に例える
ここで一度思考実験を行いたいと思う。
少々強引なイメージ解釈で申し訳ないのですが、自分の行動を振り子に置き換えてみていただけないだろうか?
自分が何か行動を起こしたとき、振り子が左右に揺れるというイメージ。
さて、私たちが何もしなければ、振り子はただ地球に真っすぐに垂れ下がっているだけ。しかし、一度私たちが行動を開始すると、振り子は左右に揺れ始め、大きく動けば大きく、小さければ小さく、私たちの行動の力の大きさに等しく揺れ動くのだ。
振り子の面白いところは、一度揺れ動くとまた元の止まった状態になるまでの間、私たちが意図しなくてもしばらく動き続ける点だ。ともすれば、私たちの心の在り様によって、振り子の揺れ方が変わり、つまり行動の結果に起因しているとも言えるのだ。
さらにいえば、意図的に行動を起こしてみたものの、なんだか思ってもいないようなことが後々起こり続けるのは、振り子が惰性で動き続けている影響と捉えると、なんだかわかった気になってくる。
仏教では、すべては因縁によって導かれるといわれたりする、自分の行動が因、その結果周りに起こるのが縁であるということだ。
そういえば、お寺にある鐘も強く突けば、鐘は大きく鳴り響き、手に感じる振動も大きく、音の残響も遠くへ長く続く。
ここでひとつ余談ですが、私が子供のころ、父親がまだ3歳くらいだった妹を抱っこして、片手でお寺の鐘を突いたところ、肩が外れ脱臼したことがありました。
妹に鐘を体験させようという親心が起因であり、その結果、自身は怪我を負い、周りの人が心配したり、病院にお世話になったりしたことがご縁だったでしょう。
話を戻し、本項を締めくくります。
人生とは、文字通り何もしなければ、それだけ振れ幅の少ない、平穏な日々を送れるでしょう。しかし人生は時として、抗いようのない衝動によって突き動かされるもの。
それもきっと、この世界のゆらぎの性質の一つなのではないだろうか。
心も振動だから
『心動かされる』『心に響く』という言葉の通り、人の行動は時として、周りの人の心を打つ。それゆえ共振や共鳴、と呼ばれるのでしょう。
この世界の根幹は、振動(波動)である、と言われる所以はどこにあるでしょう。それはきっと、この世界が素粒子が折り重なることによってできているからであり、素粒子が振動しているからだと予断するから。
幾重にも折り重なり螺旋状に渦巻きながら運動し続け、私たちの意識によって素粒子はその振る舞いを変える。
意識とは、精神、つまり心の投影であるならば、すべては自分の掌の上で起こっていること。
胸に手を当て、掌の上に振り子が揺れているのを想像してみるといい、きっと心安らぐだろう。ゆえに、すべて大丈夫なのです。いつかきっと、私たち自身が世界そのものであるという答えに辿り着けるはず。