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Vol.521「頭山満 未完の昭和史」
(2024.12.3)
【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…ゴーマニズム宣言SPECIAL『大東亜論』は、頭山満という実在の人物を主人公にしたフィクションである。頭山満は福岡を拠点とした政治結社「玄洋社」の中心人物で、「アジアの巨人」と呼ばれ、戦前の日本ではその名を知らない者がないほどの人気者だった。ところが敗戦後はGHQの占領政策によって「アジア侵略の煽動者」のレッテルを貼られ、完全に忘れられた存在となっていた。この「侵略者」のイメージは全くの濡れ衣であること、そしてどれほど魅力的な人物であるかということを残すために『大東亜論』を描いたのである。連載を描きつつ気になっていたのは、支那事変勃発で日本と中国が戦うようになり、大東亜戦争開戦を経て没するまでの間、頭山は何をしていたのかということだった。まだそれを描くのは相当先とはいえ、その期間に関する本はほとんどなく、謎のままだったのだ。しかし、ついにその空白を埋める名著が登場した!「頭山満 未完の昭和史」とは、どんなものなのだろうか?
※茅根豪氏による特別寄稿…前回(ライジングVol.520)の文章の中で、強姦罪(当時)の時代は「消極的な同意」という概念が認められていたことをお伝えした。不本意だが仕方がないこととして受け入れる場合である。果たして不同意性交罪でも同じように消極的な同意を認めてくれるのだろうか?政府答弁などでは「処罰範囲を拡大するものではない」と繰り返し説明されてはいたが……。
※泉美木蘭の「トンデモ見聞録」…持統天皇と万葉集について書きはじめてみたら、思いのほか反応があった。万葉集の専門書は長大で難しくて、かなり嚙み砕いてみようと思ったので、嬉しかった。「持統天皇は大河ドラマにするべき」という意見には、私もすごく賛同する。コメント欄以外に直接連絡をくれた人もいて、いまの女性皇族と持統天皇にまつわる逸話を教えてくれた人もいて驚いた。今回も「女帝・持統天皇列伝」をつづける。生まれた時から既に“ただ者じゃない”持統天皇、その目は何を見て育っていったのか?
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1. ゴーマニズム宣言・第550回「頭山満 未完の昭和史」
もうすぐ12月8日。
84回目の大東亜戦争開戦の日がやって来る。
この戦争は「大東亜戦争」だった。「太平洋戦争」は戦後に戦勝国に押し付けられた名称である。
大東亜戦争の価値を再評価すべく『戦争論』を描き、さらに『大東亜論』を描いたわしとしては、未だに「大東亜戦争」という言葉すら一般的ではないことが歯がゆいばかりである。
ゴーマニズム宣言SPECIAL『大東亜論』は、頭山満という実在の人物を主人公にしたフィクションである。
頭山満は福岡を拠点とした政治結社「玄洋社」の中心人物で、「アジアの巨人」と呼ばれ、戦前の日本ではその名を知らない者がないほどの人気者だった。
ところが敗戦後はGHQの占領政策によって「アジア侵略の煽動者」のレッテルを貼られ、完全に忘れられた存在となっていた。
わしは同郷の人物ということもあって以前から頭山に興味があり、調べていくうちに、その「侵略者」のイメージは全くの濡れ衣であることを知り、さらにこんなに魅力的な人物はないと思い、これを埋もれさせてはいけないと『大東亜論』を描いたのである。
頭山満は黒船来航2年後の安政2年(1855)に生まれ、敗戦の前年・昭和19年(1944)に89歳で没している。今年が没後80年、来年は生誕170年ということになる。
『大東亜論』は当初はそのタイトルどおり「論」として、頭山の思想に焦点を当て、玄洋社設立以降について描いていたが、描くうちに「論」ではなく頭山を主役とした「物語」を描く方が面白くなってきた。
そのため、第1巻『巨傑誕生編』で、明治22年(1889)の玄洋社員・来島恒喜による外相・大隈重信への爆弾投擲事件までを描き切ったところで一旦リセットし、第2巻『愛国志士、決起ス』では頭山の少年時代までさかのぼって玄洋社設立以前の時代から語り直すという、やや変則的な構成となった。
そして第3巻『明治日本を作った男達』では、自由民権結社として設立された玄洋社の活躍と民権運動の挫折を描き、第4巻『朝鮮半島動乱す!』では、いよいよアジア主義に歩を進め、「アジアの巨人」と呼ばれるようになっていく頭山の姿を描き始めたところだった。
ところが掲載紙「SAPIO」の休刊により、明治27年(1894)、頭山が支援した朝鮮の志士・金玉均が暗殺されたところまでで未完となってしまった。まだ日清・日露戦争にすら至っておらず、あまりにも早い終了だった。
頭山満自身は生涯1冊の著作も書いていないが、生前は大人気の人物だったため、聞き書きによる本や評伝などが数多く出ていた。
『大東亜論』を描く際にもそれらを参考にして頭山の人物像を造形していったのだが、困ったのは、それらの本にはとにかく頭山という人は寡黙で、無口で何も語らない人と記されていることだった。
寡黙で何も話さないのでは、とても漫画の主人公にはならない。ただ、青年時代の頭山は能弁であり、自由民権運動においても名演説家として鳴らし、その姿は老年の頭山からは想像もつかないようなものだったという記述もあったので、そこはフィクションとして思い切って、ものすごく喜怒哀楽が激しく行動的な頭山満を描いていった。
そうして連載を描きつつ気になっていたのは、支那事変勃発で日本と中国が戦うようになり、大東亜戦争開戦を経て没するまでの間、頭山は何をしていたのかということだった。まだそれを描くのは相当先とはいえ、その期間に関する本はほとんどなく、謎のままだったのだ。
しかし、ついにその空白を埋める名著が登場した。
その著書は『頭山満未完の昭和史 日中不戦の信念と日中和平工作』(花乱社)。著者は玄洋社・頭山満研究の第一人者(ご本人によれば、他に誰も研究している人がいないから、もう50年も「第一人者」をやっているという)、石瀧豊美氏である。石瀧氏には『大東亜論』執筆の際にお会いして、直接ご教示いただいたこともある。
頭山満は敗戦と共に「アジア侵略の旗振り役」として糾弾されるようになってしまうのだが、それはGHQの占領政策だけのせいではない。実際、そのように取られても仕方のないような発言が戦時中には多く出ていたという。
そして、それらの頭山の発言について検証しているのが同書の第1章『頭山満のパラドックス』である。
前述の通り、晩年の頭山はとにかく寡黙だった。何しろ、「あるインタビュアーは室内の油絵の額を『金玉均じゃ』と説明する言葉と、頭山邸を辞する玄関で、見送りに出た頭山の『またおいで』という言葉しか聞くことができなかったと告白している」というほどなのだ。
とはいえ、頭山は何も知らないから黙っていたわけではない。むしろ逆で、全てを知り抜いていながら、わざと何も知らないふりをして黙っていたのだ。それは、わかる人にはわかっていた。中江兆民が頭山を「君言はずして而(しか)して知れり」と評していたように。
だが、それでは記事にならないから、新聞・雑誌の記者は都合のいい頭山の「談話」を勝手に作って載せた。それでも頭山はいちいち抗議したりはしない。ただ、親しい人物には「何も話さんのが毎月色々の雑誌に載ってゐる」と言っていたようだ。
石瀧氏は頭山の沈黙について、こう記している。
「頭山の沈黙は度を過ぎているが、意図的にそういうスタイルを選んだのである。頭山の表面に見えることはすべて演技だ、というのが、今私が考えていることである。たとえて言えば、大石内蔵助が討ち入りを成就していなかったら、私たちは祇園遊びの擬態でしか、内蔵助を記憶していなかっただろう」
全く同感である。本当の頭山は、もしかしたらわしが漫画に描いたような、感情が豊かで心の熱い人だったのではないかとも思うのである。
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