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号外「広島原爆資料館マイルド化の変遷から未来を考える」

(2024.11.12)

(お知らせ)
※今年35年ぶりに平和記念資料館を見学したが、記憶していた印象とはずいぶん変わっていた。迫力のある大きな絵や、被爆した親子を模したマネキン人形などは撤去されていて、見学者の半数以上は外国人、会場そのものはものすごく静かで、展示物は暗いガラスケースの中にあり、ぽつりぽつりとダウンライトを浴びて沈黙している。子供の写真と遺品、添えられた説明文を読むと悲しい気持ちになるのだが、全体的に静謐な空間で、強い感情や情念が抑制されている感じがした。原爆の資料に限らず、日本人が公的な場所で表現するものは、どんどん優しいもの、刺激を抑えたマイルドなものへと変化している。そんなご時世で、広島の展示は、どう変わったのか。それを知りたくなり、古書店で可能な限り古い図録を探し、平成11年(1999年)発行のものを取り寄せた。令和5年発行の現在の図録と比べてみて明らかになったこととは?

*通常号の配信予定でしたが、よしりん先生が作品制作のためのカンヅメに入っているため、通常号での配信ができません。今週は「号外」での配信とさせていただきます。ご理解の程よろしくお願いいたします。


泉美木蘭のトンデモ見聞録・第342回「広島原爆資料館マイルド化の変遷から未来を考える」

■折り鶴放火事件の記憶から
 私が修学旅行で広島へ行ったのは、中学3年の時だと思い込んでいたが、よくよく記憶をたどると、小学6年生、ちょうど昭和が終わり、平成が始まった年だった。
 全校生徒で折った千羽鶴の束を預かって、平和記念公園の「原爆の子の像」に捧げるという儀式があり、同時に、原爆症で亡くなった佐々木禎子さんの物語や、原爆孤児の話を聞いた。今でも同じような教育を受けている子どもはたくさんいるだろう。

原爆の子の像と折り鶴ボックス

 ところが、その広島の晩、宿泊先の宮島の宿舎で、自分たちの捧げた千羽鶴が放火されたというニュースが流れた。ブラウン管のテレビの前にみんなが集まり、煙のくすぶる現場映像を呆然と眺めていたのを覚えている。

 広島の折り鶴への放火は、私が出くわしたものを含めて、昭和の終わりごろから平成にかけてちらほら起きていたようだが、大きく報道されたのは、平成15年8月1日、大阪府東大阪市に住む関西学院大学の男子学生が火をつけ、14万羽を燃やして逮捕されたもので、「原爆の日」直前の出来事でもあり、ネット上でも最大の事件として取り上げられている。
 留年が決まり、就職できなくなって、むしゃくしゃしての犯行だったらしい。まさに戦後民主主義の「ただれてくるよな平和さ」のなかで起きた出来事という印象だ。
 放火した学生は、自分の鬱憤を晴らすことしか考えていなかったと思うが、「反戦平和」「核廃絶」という言葉を取り巻く、偽善に満ちて動かないプラスチックのような日本人の醸し出す空気、「それ以上考えたって、どうせアメリカに守られている身だし」という弛緩した属国の諦め感が、「爆心地・広島」を軽視することを手伝ってもいるのではないだろうか。

■マイルドになった広島平和記念資料館
 今年35年ぶりに平和記念資料館を見学したが、記憶していた印象とはずいぶん変わっていた。
 迫力のある大きな絵や、被爆した親子を模したマネキン人形などは撤去されていて、見学者の半数以上は外国人、会場そのものはものすごく静かで、展示物は暗いガラスケースの中にあり、ぽつりぽつりとダウンライトを浴びて沈黙している。
 子供の写真と遺品、添えられた説明文を読むと悲しい気持ちになるのだが、全体的に静謐な空間で、強い感情や情念が抑制されている感じがした。
 遺品の展示を見終わると、原子爆弾の図解や戦時中の政治的解説がはじまり、ようやく「アメリカ」という言葉が出てくるのだが、そこは科学博物館のような空間になっていて、ラストはオバマのパネルなどで締めくくられ、なんだか資料館全体から「怒り」が薄れているように感じ、私には物足りなさが残った。
 広島駅までのタクシーに乗ると、運転手の男性はこう言っていた。

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