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河童

春。暮れのチャイムが町に流れる時間に私のシフトは始まる。自動ドアが開くたびに生暖かい風が店内へ忍び入ってくる。風は柳川に棲む微生物たちの香りも含んでいる。
「すみません、これさっき買ったんですけど返品できますか」
レジの前に河童が立っていた。
この店で働き始めたのは四日前。私はまだ返品の手順を知らなかったので、バックヤードで売上の確認をしている店長に尋ねた。店長は丁寧に指示をしてくれて、私は返品の手順を覚えた。河童は単三電池を返品し、代わりに単四電池を購入して去っていった。
帰り道、私は生温い風に含まれた微生物の匂いをいつもより強く感じた。

夏。僅かに欠けた月が高い空から町を照らしている。外の空気はじめじめとして、肌にまとわりつくような暑苦しさだったが、店内は空調によって心地よい涼しさに管理されている。私は初めての夜勤シフトに入っていた。マニュアルを確認しながら、フライヤーの清掃作業をしていると、ばたばたとした足取りで河童がやってきた。
「すみません、お手洗い借りてもいいですか」
「どうぞ、左手奥になります」
トイレだけ借りて帰るのは気まずいと思ったのか、店を出る時、河童はペットボトルの三ツ矢サイダーを購入していった。
日中、きつい陽射しを吸い込み続けたアスファルトは、この時間でもまだ熱を含んでいるらしく、店を出た河童はひょこひょこと跳ねるような足取りで道路を渡り、柳川へと飛び込んでいった。

秋。夕暮れの柳川の上空を赤とんぼ達が何かを探すように飛び回っている。店内の私はもうすっかり慣れた手つきで、レジに並んだ客を捌いていく。煙草、公共料金の支払い、宅配便の受付、切手や印紙の販売、なんでもこなせるようになった。
この日、河童はいつになく怠そうな足取りで店へやってきた。普段吊り上がっているはずの目は力を失くしたようにとろん、と下がっていて、頭の皿は火照って薄桃色になっている。
「どうぞお大事にしてください」
「すみません、ありがとうございます」
スポーツ飲料とお粥、フルーツゼリーをカゴに入れてレジにやってきた河童と、私は少しだけ言葉を交わした。肌寒い季節になってきたので、私も気をつけないといけない。店の外では風が吹く度に美しい色の落ち葉が舞い上がる。

初冬。通りには人の影が少なく、時おり見かける通行人は肩をすぼめ、襟を立てて足早に過ぎていく。私はホット飲料の在庫の補充をしていた。今日からドリンクを温めるヒーターの設定温度が三度上がっている。火傷をしないよう、しかしできる限り丁寧に缶やペットボトルを並べていく。
「明日から」
声のする方へ振り向くと、 河童が立っていた。 
「冬眠なんです」
河童が右手に持ったカゴには大量のスナック菓子が入っている。
「冬眠、ですか?」
私は呆気に取られつつ返事をした。突然話しかけられたことにまず驚き、その言葉の意味を反芻し理解するとさらに混乱は深まった。
「ええ、そうです。毎年のことですが」
「冬眠というと、えっと、あの冬眠ですか。春になるまで土の中でずっと眠る」
「そうです、その冬眠です。あんまり楽しいもんじゃあないですがね」
「その、河童も冬眠するんですか」
「ええ、そりゃあしますよ。あなた冬に河童見たことがありますか」
「言われてみればありません」
「亀だって冬眠するでしょう」
「まあ確かに」
「キュウリは夏野菜だし」
「それは関係ないんじゃ」
「冬眠ってのはね、そりゃあ惨めなもんですよ。地獄の苦しみですよ。なんたって何もやる事がないんだ。冬眠といっても実は眠るわけじゃないんです。ずっとね、意識はあるんですよ。意識のあるまま、ただただじっとしていなくちゃならない。何日だろうと何ヶ月だろうと関係ありません。土の中はいつだって永遠です。他の動物は知りませんよ。他の動物にとっちゃ冬眠なんてむしろ心地良いものかも知りませんがね。私たち河童としては何より御免被りたいものなんです。他の動物なんかと比べられちゃ困りますよ。世の中にはね、厳しい冬の間ただ寝てりゃいいんだから楽なもんだ、全く羨ましい、なんて事を言う人もいますよ。しかしこれはとんでもない暴言です。ええもちろん、それはね、仕方のないことです。分かっています。はたからみたらそう見えるのも無理はない。私たちは何も反論しませんよ。でもね、ここに苦しみがある。動かしようのない苦しみがある。そのことだけはどうにも変わらないんです。私の苦しみは私だけのものですから。ええ、そうなんです....。ああ、すみませんね、ついつい言葉が止まらなくなってしまいまして。これは失礼しました。あなたにこんな話をしても仕方がない。ではね、また春になったら来ますよ。なんだって買いにきますから。ええ、また春になったら。それまではね、しばらく」
それだけ言って河童は去った。

帰り道、月の無い夜空のせいか街灯の光が妙に明るく感じられた。光に照らされた柳川の水面は、音一つ立てないまま、ゆらゆらと蠢いていた。
私はその光をしばらく眺めていたが、やがて寒さに耐えきれず、足早に家へと帰った。

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