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1924盛平モンゴルへ【第二章 西北自治軍の結成】

◽️軍を組織し入蒙
 遂に奉天に到着した一行はパートナーの盧占魁(東三省陸軍中将)と公館で面会することになり、盛平はこれに同行。盧占魁の公館に連泊していたそうです。
*奉天 清朝が北京遷都する前のかつての首都

大都市 奉天
青色が大本一行が進んだルート

 当時支那との条約で日本の宗教は布教が許されていないため、大本ラマ教を新たに創立し、出口王仁三郎はダライラマとして入蒙することになりました。張作霖から正式に蒙古出征の命が下り、西北自治軍を結成。この頃から盛平は支那名で王守高(ワン•ショウガオ)と名乗ります。他の日本人は軍の役職がある中、盛平の名前はありません。

名義上、出口王仁三郎が盧占魁を率いています。
西北自治軍旗は大本更始会の徽章を使用

◽️旅の日常
3月3日
奉天から鄭家屯(テイカトン)まで車で出発。当時は汽車で行くのが普通であり、車で向かうのはかなり無謀だったそうです。出口王仁三郎と盛平は現地を理解するため、2台の車を準備して行く事になったのですが、なんせ悪路で1時間毎に修理が必要だったり、凍った川を車で渡る際には裂け目があり水没しかけたなど、危険と隣り合わせで盛平は神明のご加護として神恩を謝しておりました。

3月4日
荒野を走る車が遂にダメになってしまい、部品を取り寄せるまで昌図府(シヨウズフ)の木賃ホテル三号店に宿泊する事になりました。実はビザを持たず旅行をしていたため、支那の巡警がホテルにやって来て「日本人と聞いたがビザは持ってるのか?」と調査しに来ました。岡崎は張作霖の指示だとその場を濁したそうですが、次は4、5人の軍曹が取り調べに来ました。今度は「張作霖に報告するとぞ!」と脅し追い払いましが、最後は日本領事館の方が日本の巡査を連れて訪問するも、高圧的な回答をして追い払う始末。出口王仁三郎は後日「日本人は支那人に対し、すべてがこんな調子だから何ほど日支親善を叫んでも駄目だなア」と回想しています。

昌図府

3月5日
車の修理が終わり再出発。舗装された道がなく車内で飛んだり跳ねたりと頭やお尻を打ち付ける有様だったそうです。またお互いの車がぶつかりガラスが割れて盛平はガラスの破片を顔に浴び眼辺を負傷。顔面は血がダラダラと流れる程でした。そんなこんなで四平街に到着。その夜は久しぶりに日本の鶏鍋を食べ、日本のお風呂にも浸かったそうで、ホッとした様子が想像できます。

四平街 カラー復刻

3月6日
車はこりごりだったのか計画を変えてここからは汽車での移動。四平街を出発し鄭家屯に到着。ここで盛平は東屋という料理店で牛飲馬食した記録が残っています。
※鄭家屯 日中が軍事衝突した鄭家屯事件の舞台

鄭家屯

3月7日
午前6時30分鄭家屯から汽車に乗り洮南(トウナン)を目指すのですが、なんせ満鉄のお古を利用した鉄道のため、頻繁に故障。茂林駅手前で7時間、太平川駅で1時間も立ち往生しました。

◽️危険地帯に中継地を作る
3月8日
洮南駅に到着したのは午後9時30分。馬車に乗って洮南旅館へチェックインしました。これまでのエリアとは異なり日本の官憲勢力外で日本人にとっては危険エリア。過去180人居た日本人も支那官憲の圧迫で退去したそうです。また馬賊が襲う可能性もあるため、土を盛って城壁を作り、毎晩威嚇発砲の音が鳴り止まない物騒な土地でもありました。そんな洮南で入蒙準備として家屋を一年借り、屋号を長栄号と名乗って貿易商を営みながら軍器や食糧の中継場としました。滞在中に実際街が馬賊に襲われる事もあり、緊張が高まる中、日本人同士での内輪揉めもあったり、ストレスも半端ではなかったと思います。

洮南 市街全景

 次回は盛平の柔術エピソードを原文でお届けいたします。合気道家の皆さまはお楽しみに!

つづく

※備考
街の写真は年代が前後しておりますが当時の雰囲気が分かりやすい様に添付しております。ご容赦ください。

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