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1924盛平モンゴルへ【第三章 迷惑な柔術家】
◽️メートルを上げる盛平
メートルを上げるとはお酒で上機嫌になると言う死語です。「守高はおおいにメートルを上げてゐる」との記述がありました。その盛平は旅の途中、酒に酔っ払っては柔術の実習や口演をしていたそうです。現代でも稽古後に酒の場でメートルを上げるのは同じですね。また日本人仲間と柔術の稽古をよくしていたそうですが、出口王仁三郎が姿を現すと直ぐに中断していたそうです。なんだかこっそりゲームをしている所を親にバレた子供の様な感じで可愛らしい。
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佐々木、王仁三郎、岡崎、大石、松村、名田、盛平
3月15日
この日はカゴに乗って洮南を出発しますが風がキツく盛平は道の溝の中に放り投げられたそうです。悲惨な目に遭いながらも翌日公爺府に無事到着。ここは蒙古人が住むエリアで救世主の出口王仁三郎がどの様な人物か日夜見学しに来たそうです。盛平は現地人の病気鎮魂の為、遠方に出向いたりもしていました。
◽️技は感情を反映する
公爺府で滞在中の盛平はモンゴル人から反感を買い危うく殺されかけました事もあります。
「守高は得意の柔術を蒙古人に寒い風の吹く戸外で教えてゐた。一見しても一癖ありそうな武術面をしてゐるので、蒙古人は薄気味悪く感じてゐたけれども、物珍しさに一二回の柔術稽古をやつて見た。守高は......こんな野蛮国の人間には自分の力を見せておかねば軽蔑されると云う考えへから、蒙古人の手首の急所を力一杯掴み締めたので、蒙古人は青くなってヘタバつた。それを蒙古人は柔術の手とは知らず、かつ言葉の通じない所より非常に守高を悪党と誤解し、村中の蒙古男子が王得勝の家に集まつて、暗夜に乗じて守高を鉄砲で討ち殺そうといふ相談を定めた。」
最終的には出口王仁三郎が王得勝にお金を渡して事なきを得たそうです。出口王仁三郎は「此時の心配は一通りではないと」っと書いているあたり何してくれんねんっと言った所でしょうか。開祖の口から”野蛮國”や”軽蔑される”と言う言葉が出るのも驚きです。こんな考えで技を繰り出せば受ける方は盛平の感情を察するでしょう。1、2人の話ではなく村中の人に殺されそうになるのはよっぽどだったと思います。とは言えこれはあくまでも出口王仁三郎の視点。
話変わって蒙古人の手首の急所を掴み絞めたとは四ヶ条をしてそうですね。
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◽️空気が読めない盛平
皆んながこれから大事を成すところにも関わらず盛平の柔術での失敗談はまだまだ続きます。
「守高と名田彦とが柔術の自慢を朝から晩まで引つきりなしにやるので、岡崎や王元祺が立腹してゐる処へ、名田彦が岡崎の手を握って自慢げに『柔術はこんなものだ』と云つた所、岡崎はカツと怒つて小便のしてあつた金盥を名田彦の顔にぶつつけた。名田彦は非常に口惜しがつたが、岡崎の権幕に恐れ、かつ日出雄になだめられて歯切しりしながらヤツと胸をおさめた」
私の妄想ですがここでは盛平がやり返した記述や誰も咎めていないところを見ると、シュンっとなって反省モードだったかもしれませんね。いい年したおっさんですがなんか子供みたいでまた可愛いと思ってしまいました。
4月14日
盧占魁は200人軍隊を率いて公爺府に到着し出口王仁三郎と合流。
4月26日
この日、公爺府から索倫山に向かうため、出口王仁三郎は生まれて初めて軍隊を引率。この時、植芝盛平は初めて乗馬するのですが姿勢が綺麗で兵士の間で評判だった様です。因みに日記には守高は出国以来の風邪未だ癒えずとあり、2ヶ月以上風邪を引いていたことになります。大変な状況で旅をされていたんですね。
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◽️武術をバカにされる
進軍中に兵士に稽古をつけたお話があります。
「守高に柔術を学ぶものは支那の中四五名はあつた。併し大部分の将卒は柔術を蔑視して居た。彼等は云う『何程柔術が達者でも飛び道具にら叶うまい、今日の戦争は銃砲より外に力になるものはない、柔術など云ふものは一種の遊芸だ』と。守高は或いは騎馬にて郊外を散策する時、例のシーゴーに吠えつかれ、乗馬が驚いて駆け出す途端に落馬したが、彼は落馬したのではない無事着陸したのだと不減口を云って笑つて居た。」
皆さんはどう感じましたか?
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さてここからが本番。西北自治軍は大庫倫(現:ウランバートル)を目指しそこの赤軍と交渉、和議ならぬ場合は開戦を計画。ここに来て盛平は出口王仁三郎の近侍長としての用務に仕え、まずは上木局へ進軍する事になりました。
因みにウランバートルとは「赤い英雄」と言う意味で目的だった赤化を止めれなかったことを歴史が証明しています。また赤い英雄を民主化した今でも掲げているのは感慨深いものです。
次回一気に盛平達の運命の歯車が狂い始めます。
つづく
大阪の道場にも遊びに来てね