貧困妄想とのおつきあい
貧困妄想とのおつきあいも長くなった。振り返ると、小学生くらいの時には、すでに貧困妄想があったのだと思う。
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貧困妄想とは、うつ病の症状の一つである。うつ病の症状の一つに、「微少妄想」というものがある。
これはさらに三つの種類に分けることができる。健康状態に関して不安になってしまう「心気妄想」、自分の行動に罪があると思って思い詰めてしまう「罪業妄想」、そして、お金のことが心配になってしまう「貧困妄想」だ。
これらは全て、現実の状態よりも自分の状況を「微少」だと捉えてしまうので、「微少妄想」というらしい。
たぶん、うつ病ではなくとも、人は心身が弱っているときに、これらの妄想に近い症状が出現することがあるんだと思う。
この中でも僕がよく陥るのが、貧困妄想だ。
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あれはたしか小学生のとき。僕の誕生日のお祝いだったのだと思う。祖父母も交えて、ファミリーレストランに食事にいった。そこで食べたいものを聞かれたとき、なぜか僕は、おかゆを選んだ。
繰り返すが、僕の誕生日のお祝いである。好きなものを、できれば高いものを選ぶべき場面である。そこでなぜか僕は、おかゆを選んだ。最も安いと思われる、おかゆを選んだ。本当に安かったかはともかく、僕は明確に安いものを選んだ意識がある。
今でもあのときの感覚を覚えている。僕はなぜか、最も安いものを選ばなければならないと思った。なぜか、誰よりも安いものを選んだ。その理由はわからないけれども、もしかしたら、貧困妄想に近い状態にあったのかもしれないと、今では思う。
貧困妄想は、本当にお金がないのかどうかは関係ない。未だに両親の収入についてはよくわかっていない僕が、当時家計を意識していたとは考えにくい。
なぜか、ただ、「自分は」安いものを選ばなければならない、と感じていたのだ。他の家族はどうでもいい。ただ、自分には他のものを頼む資格がない、最も安いものを頼まなければならないと感じていた。
記憶なんて曖昧なものだ。実際には、何かに遠慮したのかもしれない。恥ずかしかったのかもしれない。ちょっとひねくれてみたかったのかもしれない。ただ、現在の僕の記憶だと、その貧困妄想に近い感覚が思い起こされるのだ。
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大人になって働くようになると、貧困妄想はよく顔を出すようになった。
その時の収入や貯金額とは、いっさい関係ない。経済状況なんてほとんど変わらないのに、「自分は貧困だ」という意識があふれ出るときと、そんなものはみじんも感じないときとがあるのだ。
これは今になってわかることで、当時はよくわかっていなかった。しばらくの間「自分は貧困だ」という意識がずっと続くこともあったけれど、それは本当にお金がないからだと思っていた。
何らかの具体的なきっかけがあったのかもしれない。例えば、車の購入等の大きな出費があった、複数の出費が重なった、といった支出があったとき。または、給料が思いのほか少なかった、あてにしていた収入が得られなかった、といった収入がなかったとき。
特に思い当たるのが、将来のことを考えたときだ。このままの収入だと、数年後はどうなっているだろう。周囲の人に比べて自分の収入は少ないけれど、今後ますます差は開いていくんじゃないか。そんなときに、貧困の意識が生まれる。
それは多分、具体的な経済状況に対して貧困状態が想定されたわけではなくて、将来に対する漠然とした不安が、結果的に貧困妄想を生んだんじゃないかと思っている。なぜなら、そのときの経済状況は、客観的に考えれば貧困だとは思えないからだ。
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将来への不安は、今でも貧困妄想に結びつきやすい。逆に言うと、その日そのひのことを考えているときには、あまり貧困妄想は現れない。
今は決して安定した収入のある状況ではないし、収入も少ない。一方で出費はかさんでいるから、経済的には不安定な状況である。
ただ、しばらくは生活するのには困らない状態ではあるし、いざとなったら頼れる家族もいる。幸い日本という国は社会保障がしっかりしているから、知識さえあれば、最低限生きていくことはできる。
普段はそんなふうに考えて、その日そのひを、ゆらゆらと過ごしている。
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しかし、たまに将来のことを考えてしまい、不安になる。そして、急に自分は貧困状態にあるという気持ちが湧き上がって、収入を得ることや、支出を減らすことを考えだす。
これはもしかしたら、逆かもしれない。自分は貧困状態にあるという気持ちが湧き上がったことによって、将来のことを考え、不安になってしまうのかもしれない。
とにかく、それらはワンセットで訪れることが多い。
とたんに、しばらくは食事を減らして節約しようとか、少しでも働いて稼がないとと考え出す。
だから、僕のスマホには多くの求人サイトアプリが常に入っていて、そんな時にそれらを巡る。
ただ、そのまま寝落ちして、朝目覚めると、我に返って、どうでも良くなってしまう。不安な気持ちはどこかへ行ってしまう。
たまに、目覚めても不安が収まらないこともある。そのままずっと布団にくるまりながら、ひたすら求人サイトを見たり、資格でも取った方が良いのかと資格サイトを巡りだす。
だいたいこの資格に惹かれ出す現象は、メンタル不調のサインでもある。
運悪くその日に用事がなかったりすると、そのまま一日中悩み通すこともある。ずっと、求人サイトと資格サイトを行ったり来たりしながら、不安をかみしめる。
ただ、運良く外出する用事があって外へ出ると、大抵の不安は消えてしまう。外に出て、道行く人を見かけ、自分が現実世界に生きていることを実感するとともに、よくわからない不安はどこかへ行ってしまう。
それがわかってからは、貧困妄想もそれほど怖くはなくなった。対処法がわかっていれば、なんとかなる。それを実行に移すのは、また別問題なのだけれど。
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そんなふうにして、僕は貧困妄想とつきあっている。貧困妄想は、「節約しなきゃ」「仕事を増やさなきゃ」「資格を取らなきゃ」という姿で現れることが多い。それがわかってきたから、それを貧困妄想として処理することができるようになってきた。
実際そのモードに入っているときは、そんなに冷静に処理できるわけではない。そのような思いがどんどん湧き上がってくるので、とても不安になる。それでも、それは一時的なものだとわかっていることで、通り過ぎるのを待つことができる。
そして、通り過ぎたときには、あれは何だったんだろうというくらいに、どうでも良くなっていることに気づくことができる。そこで改めて、現状を冷静に判断することができる。
こういうモードに定期的に入る人にとって、冷静な判断をできる状態にあるかどうかを見極めることは、とても大切だ。
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自分がこんなだから、同じような状態に陥っている人にも敏感だ。「節約しなきゃ」「貯金しなきゃ」「仕事増やさなきゃ」「資格とらなきゃ」の背景には、貧困妄想のような状態が見え隠れしている場合もある。将来の展望のためにそう考えるのと、なんとなく不安を感じているのとでは、ちょっと空気が違うものだ。その空気に、敏感になる。
だからと言って、そんな状態の人に何を言っても無駄である。「冷静に考えて! 十分生活できるでしょ!」なんて言ったところで、不安は消え去らない。
なぜなら、それは妄想なのだから。妄想は、当人にとっては現実なのだ。そんなときは、妄想にとことん付き合う中で、不安を少しずつ解消していくしかない。せめて、大事な決断を保留するようにだけ、促せれば御の字だ。
とは言うものの、自分自身をコントロールもできないのに、人のことをどうこう言う余裕もないことも事実で。
こんなときにこそ、友が必要なのだと思うと、交友関係に疎い自分も、もう少しなんとかしなきゃと思うのである。