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学校教育における「必要」の教育と「知」の教育

途上国においては、まだまだ教育を受けられない子どもが多いという。教育の機会は、子どもたちに安全と健康をもたらし、児童労働や児童婚を防ぐためにも大切なものである。

例えば、文字の読み書きができなければ、求人の情報を正しく受け取れなかったり、文字の読み書きが必要な職種につけなかったりと、雇用の機会が制限されてしまう。

保健教育を通して、避妊や性病の知識、感染症に関する理解、衛生的な環境を整える技術を知る、といった機会を得られなければ、安全と健康を維持することは難しくなる。

一方で、学校という公の場に身を置く時間を得ることで、子どもの安全や健康を外部から認識しやすくなるとともに、間接的に児童労働や児童婚を防ぐことにつながる。

このように、学校教育には、生きていくために必要な情報を得たり、公的な場で保護する機会を作るという役割がある。

このような学校教育の役割を、ここでは「必要」の教育と言っておく。「必要」な情報、「必要」な支援を提供するという役割だ。

この「必要」の内容は、国や文化、時代によって変わる。フランスとカンボジアと日本では「必要」は違う。明治時代と戦時中と現代では「必要」は違う。その社会が求める「生きていくために必要な情報」や、その社会がはらんでいる子ども達をとりまく危険によって、「必要」の教育は変わる。

一方、その他の学校教育の役割として、高等教育につながるような、学問の「知」そのものに触れるという役割もあると思う。未知のものに触れ、刺激を受け、その内容を理解し、時には反発しながら、自分の価値観やものの見方を変化させていくという知的な活動である。

それらは、直接的に子ども達の安全や健康に関わることは少ない。命の危険に脅かされている状態では、優先されるものではないかもしれない。

それでもかつては、「知」の教育は、学校教育の役割として想定されていたものだった。そこでは、教師に重要な役割が与えられた。

教師は生徒達に「知」をもたらす伝道師であり、未知の扉を開き、自己変革の機会をもたらすきっかけを与える啓示者であった。教師の存在自体が知の体現者であり、生徒達にとっては刺激的で、憧れや反発を通して知に近づく媒介者であった。

そのためにも、教師はその学問における「知」を体現した存在、その学問の精神性をまとった存在であることが求められた。国語教師は国語教師らしく、数学教師は数学教師らしく、体育教師は体育教師らしくあることが必要だった。なぜなら、彼らはその学問の「知」の一つの在り方だったからだ。

しかし、現代社会では、学校教育において「知」の教育は重視されなくなった。教師に求められる役割は、必要な情報をわかりやすく伝える講師、あるいは必要な技術を身につけるためのコーチや、そのための空間を調整するコーディネーターとしての役割になった。

背景にあるのは、現代日本社会が求める「必要」の多様さだ。様々な社会問題を背景に、様々な問題意識を持った専門家達の働きかけもあり、様々な教育が学校教育に導入されている。

国際教育、食育、キャリア教育、プログラミング教育、外国語教育、道徳教育、理数教育、伝統や文化に関する教育、主権者教育、消費者教育、等。

それらを、それらを学問的に修めたわけでもない教師が、生徒に教えなくてはならない。社会が要求する情報を与え、要求する能力を身につけさせなくてはならない。

プログラミングができなくてもプログラミング教育を行い、外国語が理解できなくても外国語教育を行う。栄養に気をつけた食事ができない教師であっても食育を行い、選挙に行く時間さえとれない教師であっても主権者教育を行う。

教師は勤勉で責任感も強いから、そんな無茶や矛盾にも関わらず、それらを生徒にわかりやすく伝えることができる。そこで求められるのは、教師自身の学問的態度や知的探求ではない。与えられた素材をどのように工夫して、生徒が情報を理解したり、技術を身につけることを促すかという力だ。

多種雑多な社会的要請に、限られた学校教育の中で答えるためには、優秀な講師、コーチ、コーディネーターが必要なのだ。

実はこれは、教科教育にも言えることである。教科教育とは、国語、社会、音楽といった、各教科に分けた学びである。中等教育(中学・高校)においては、それぞれ選任の教師が教える。

それぞれが分野の違いはあれども、ある程度はその学問の探求を行ってきた、知的探求者であった時期を持つ。しかし、社会が教科教育に求めるのは、その経験ではないのだ。

社会が教科教育に求めるものは、大きく二つの側面がある。一つは学習指導要領、もう一つは受験である。

学習指導要領は10年毎に改定されるが、その10年間の社会の変化に合わせて、教科教育の中で学ぶべきことが書かれている。社会で「必要」とされた中で、教科教育の中で学ぶべきと判断された内容が書かれている。この学習指導要領に従って教科書が作られ、その教科書に従って授業を行わなければならない。

学習指導要領や教科書の範囲から外れた内容を学習してもかまわないけれども、その範囲については確実に扱うことが求められる。それが、社会の要請なのである。

もう一つは受験である。小学校以降の受験は、少なくとも名目的には、学習指導要領(幼稚園の場合は教育要領)から逸脱した内容にすることができない。

例えば大学受験で、高等学校学習指導要領からかけ離れた内容を出題することはできない。これは、どの高校で学んでいても、どの大学にも行ける可能性があるという状況を保障するためだと考えられる。

ただ、実際には、高校によって学ぶ範囲や内容には差があるし、大学によって出題範囲にも差がある。それぞれあくまでも学習指導要領の範囲内での差なのだけれど、学習指導要領自体がそこまで細かく指定しているわけではないので、仕方がないというところもある。

そのような状況であるから、進学を考えたときには、学習指導要領の要請よりもより限定した形で、入試の為の学習の要請が生まれる。入試のために「必要」なことを学習するのが、教科教育の目的になる。

その結果、進学を考えた場合には、入試の出題頻度を考慮して学習分野が選ばれ、問題の解法を身に着けるための授業が行われる。

もちろんそこには、学問的専門性はあった方がいい。しかし、それ以上に求められるのが、限られた範囲の情報を効率よく理解させるための講師、受験技術を身につけさせるためのコーチ、主体的・対話的で深い学びを用いて理解と技術を育むコーディネーターの役割である。

ここで、「主体的・対話的で深い学び」という言葉が出てきたが、これはかつてはアクティブラーニングと呼ばれていたものだ(厳密には違うという説もある)。

一見この活動は、なんとなく活動的で、楽しく、自由で独創的な活動のように思えるけれども、これは一つの手段、授業形態にすぎない。「自由で独創的な発想を促す」という目的にも使えるし、「入試に合格する」という目的にも使える。

「主体的・対話的で深い学び」の要請を、現代社会が「主体性」と「対話」を要請していると単純に捉えることも可能だと思う。名目としては様々な理由が説かれているけれども、今の子ども達に必要なのは「主体性」と「対話」であり、そのような活動から得られる経験や技術が、重視されているとも言える。

ただ、これは副次的な目的であり、主たる目的は学習指導要領や受験の要請に応じた目的である。だから、目的が「入試に合格する」であることには変わりがない。

それでも今、多くの学校が「主体的・対話的で深い学び」を重視するのは、そこで得られる力が、入試に役立つからである。例えば高校では、多くの進学校が、積極的にアクティブラーニングに取り組み、結果的に学力向上に成功し、大学進学実績につながったという。

その背景の一つには、従来の講義型とは違ったアプローチでの学習効果があったこと、もう一つが、大学入試が「主体的・対話的で深い学び」に沿ったものに変化してきたということがある。だから、多くの進学校がアクティブラーニングを行うようになり、多くの研究が行われるようになった。

そのことが、学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」を推進することに影響を与えたことは想像に難くない。「主体的・対話的で深い学び」はあくまで従来と同じく、学習指導要領や受験の要請に従った教育における、一つの授業形態に過ぎないのだ。

そもそもが、近年の学習指導要領の象徴ともいえる「生きる力」こそが、現代社会が「必要」だと要請しているものであり、その特に重点化したい力が「主体性」と「対話」なのだと思う。そしてさらに進学校にとっては「入試に合格する力の育成」という要請が加わる。

いずれにせよ、重視されているのは、学校教育における「必要」の教育だ。だからこそ、「なんのために勉強するの?」という問いが、さも明確な答えがあるかのように問われるのだろう。それは、教育が制度になった時に当然必要なことではあった。「必要」があるから「制度」ができるはずだ。明確な「必要」がなければ、「制度」は整えられない。

しかし、そんななかでも、どこかで明確な答えを持たない教育の役割が、かつてはあった。それが、「知」の教育だと僕は思う。

「なぜ人は生きるの?」「なぜ人は愛するの?」といった問いと同じように、そのことに理由を求めず、そのまま受け止めてもよいことはたくさんある。教育も、かつてはそんなものの一つではなかったんじゃないだろうか。ただ教育という場があることが、価値だと捉えてもいいと思う。

「主体的・対話的で深い学び」には、いくつか弱点がある。例えば、同質的な集団の中での対話になること、そして超越した知の概念には触れにくいことだ。

多くの場合は、同じクラスの中での対話となる。多様な視点が得られるように工夫はするけれども、どうしてもその集団の構成員によって対話の広がりや深さが決まる。そもそもが、年齢や生い立ち、地域性、等について、社会全体からすれば同質的な集団である。

その中で、個々が思いもよらなかった発想に至ることや、新しい見識を見つけることは難しい。そのため、与えられた教材以上の知見、教師が想定した以上の思考を得られることは難しい。互いが「そうだよね」と共感しあって終わってしまうことも少なくない。

また、僕が深刻だと思うのが、超越した知の概念に触れる機会が少ないことだ。対話を重視する場合、その構成員が全く理解できないような素材を与えることは避けざるをえない。資料集やインターネットを駆使して、協力し合えば構成員全員で手の届く素材を用いるはずである。

しかし、そこで手の届く範囲は、広大な学問の世界と比べれば、あまりに狭く、浅いものである。場合によっては、それは「受験」のためにディフォルメされた真実かもしれない。言い換えれば、とりあえずその段階の生徒を納得させるための嘘と言ってもいいかもしれない。

確かに、子どもにとって、多くの真実は理解できないものであり、受け入れがたいものだったりする。しかし、そこに本当のおもしろさや、希望があったりもする。

今の学校教育は、「必要」の教育を重視せざるを得ない背景もあり、ある種自分達の中に閉じこもっているように、または限られた範囲の中での学びに閉じ込められているように感じられる。

これは、非常に効率的、かつ公平である。限られた人材が効率的に教育を行うには、個々がある程度の枠組みの中で、同質的な授業を行った方がいい。そうでないと、社会全体の要請を、学校教育全体で果たすことが難しくなってしまう。「私は社会全体の要請には答えません!」という教師がいると、目標達成には効率が良くない。

かつても学校に余裕があったわけではない。しかし、今ほど多くの社会の要請に縛られ、受験にも対応しなければならない中で、人員の不足していることはなかったと思う。

そんな学校教育に居心地の悪さを感じる生徒や教師は少なくない。だから、そんな中でもあがいている。結果的に、オルタナティブスクールやフリースクール、ホームスクールといった多様な学びの場の需要が増えている。また、個々の学校や教師の中にも、独自性を発揮した教育を行う姿勢がある。

そのような中で、僕が再評価したいのが、「余談」だ。余談とは、講義型の授業の中で、教師が学習事項とは離れた話をすることだ。生徒の中には、余談の時は徹底してそれを聞かずに問題演習をするというようなものもいる一方で、他の時間は寝ているのに余談だけは目を輝かせて聞いているというものもいる。

余談にも厳密にはいろいろあって、学習事項の補足だけれども入試では扱われないようなもの、学習事項から派生した学問的なトピックス、教師のプライベートで起きた出来事、など様々だ。

この中でも、教科書では扱われないような学問的な真実の魅力は、得難いものだ。当然内容は高度なものになりがちだし、知識や理解力がなければ、全く話についていけないことが多い。それでも、そこには真実がある。例え理解できなくても、真実に触れることは、大きな刺激になる。

また、実は教師のプライベートで起きた出来事も、重要な知に触れる機会なのだ。なぜなら、教師自身がどのような考え方をし、どのように行動し、どのように振り返って、何を伝えたいと思うのかを知ることが、学問の入り口になるからだ。

教師は、教員免許を持っている。教員免許を持っているからには、必ず大学で学び、何らかの学問に触れて、思考を磨いている。いくら教員免許を取得するのが難しくないとはいっても、多くの学問に触れないことには免許を取得できない。

その中で、学問の存在は、当人に何らかの影響を与えてきたはずだ。考え方や、ものの見方に影響を与えてきたはずだ。それが、余談を通じて表面化される。教師自身は自覚していなくても、生徒は自分との違いを感じ取るはずだ。

その中で、共感したり、発見したり、反発したりする中で、間接的に学問に触れる。教室という場で、教員免許を持った、教師という立場の大人の声に接する経験は、他の対人交流とは違った意味合いを持つ。

親と話したり、部活のコーチと話すのとは、違った経験になるのだ。部活動の顧問としての教師と、教室で授業をする教師では、同じ人間でも全く違った影響を生徒に与えることからも、裏付けられると思う。

そのような「知」の教育という側面が、あまり評価されなくなっていると思う。そもそもが、評価のモノサシを作るのが難しいのかもしれない。

それはまた、学問があまり評価されなくなっているということでもある。事実、大学では「知」の探求よりも、わかりやすい価値を重視せざるを得なくなってきている。

難しくて理解に時間がかかる研究よりも、誰でも楽しめて直観的におもしろいと思える研究が求められる。医療系や教員免許の人気は一層高まり、企業と連携して製品を作るような取り組みに目を奪われる。

大学教育に求められるものを決めるのは、社会だけではない。多くの受験生の声が、大学の在り方に大きく影響を与えている。しかし、当の受験生は、学問に触れる機会が少ないのだ。その入り口に立つことすらままならない。

本来、学問の入り口に立つのは自由だ。高校一年生の内容をしっかり理解しないと学問に触れてはならないということはない。また、高校一年生だからといって、高校一年生用にディフォルメされた学問しか触れてはならないということもない。

それでも、多くの受験生は、学問の入り口に立つのは大学入学後だと思っている。学問への扉は固く閉ざされ、入ってはならない領域だと遠慮している。

その結果、受験生が大学に求めるものは、学問に触れたことがないものでも魅力を感じるような研究か、大学でしか得られない資格になってしまう。

つまり、子ども達に対する「知」の教育が重視されないことが、大学教育を重視しないことにつながっているのだとも言える。

もちろん、現代社会が学校教育に求めるものが多くなってしまうのはわかる。それくらい、子ども達は危機的状況にあるし、大人が伝えたいことがたくさんある。誰もが大学進学するわけではないし、どのような進路を歩む子ども達にとっても伝えておきたいことは多い。

それでも、どこかで「知」の教育を補っていかないと、大学教育が学問から離れていってしまうように感じている。既に、資格取得、就職活動を重視した大学はいくらでもある。

その行きつく先は、多くの日本人から「知」が失われた姿だ。学問的な議論の積み重ねは行われず、交流的な意見交換だけが行われ、世論に影響を与えていく。専門家が姿を消し、誰に助言を求めればよいかもわからないまま、声の大きい者の意見が通っていく。かろうじて誰かが守ってきた価値や権利が、誰にも知られずに失われていく。学問的遺産を読み解けるものはいなくなり、先人に学ぶことも、後世に伝えることもなくなっていく。

そんな日本にしないためにも、「知」の教育という側面を、何らかの形で補っていくべきだと思う。それは、高大連携とか、そういったことではなくて、もっとふんわりと、日常の中に必要な空気だと思う。「知」の空気が、日常の中に漂っていることが大切なんだと思う。

そのための一番のキーパーソンが教師だ。教師自身が「知」の空気をまとっていれば、それでいいのだと思う。

大学時代には多かれ少なかれまとっていた知の空気は、採用試験や現場の空気の中ではがされる。「知」よりも「必要」。教師の仕事は社会の「必要」に答えることであり、あなたの「知」ではないと知らされる。教育学を専攻していた学生でさえ、現場に行けばその学問的知見は必要とされないことが多いのだから、ましてや教科教育や専門的学問に親しんだ教師のとまどいは想像できる。

もしかしたら、他の新卒一括採用企業のように、大学の学問と就職は別だと考えて、割り切れるものなのかもしれない。しかし、僕はその「知」を大事にしてほしいと思うのだ。こと教師においては。

忙しかったり、精神的に疲労が募ったり、辛い現実に打ちのめされる中でも、「知」の視点を持つことは、時として教師を救ってくれる。学問的視野に立って学び考えることは、常に新しい考えや、ものの見方を与えてくれる。「知」を大事にする姿勢は、教師自身のメンタルヘルスにも寄与すると思うのだ。

だから、採用試験でも、教科書で教えるような内容を問うたり、授業のデモンストレーションをするのではなくて、学問についての魅力や、その人自身の考え方を判断すればいいと思う。

かつてほどの倍率はない一方、人手は足りない。希望者のほとんどを教員にしたいくらいだ。僕自身に権限があったら、希望者全員を教員にしている。どんな仕事でもそうだけれども、実際に仕事をしてみなければ、適性なんてわからない。

僕自身は採用試験の一次試験の対策をするのが馬鹿らしいと思って、絶対に教員採用試験は受けたくないと思っていた人間である。あんな高校受験や大学受験のような試験で選ぶような仕事には着きたくないと思っていた。知的探求を登っている最中に、末節の知識を詰め込むのは苦痛だった。

さらには、二次試験で模擬授業なるものもあると聞いて、ぞっとした。企業の採用面接対策といい、模擬授業といい、学生の演技力を試すという奇妙な慣習が平然と行われている業界に気味の悪さを感じた。そのころから、採用方法はほとんど変わっていないようである。

もちろん現実には、少ない人件費で採用数を増やせないとか、採用に客観性が必要だとか、いろいろ事情があって現状を変えられないのもわかる。インターンの期間を設けるとか、教職大学院を活用するとか、少しずつ変えようという動きもある。

ただ、学生さんには、自分の興味のあること、活動してきたこと、大学で学んだことについて、もっと自信を持ってもらいたい。そして教員になっても、その魅力を活かしていってほしいと思う。

大学で夢中になったことや、自分のやりたいことを直接活かせないことは多いかもしれないし、興味関心のないこと、場合によっては信念に反することが求められるかもしれない。それでも、あなたの存在が「知」の体現者であり、子どもたちを「知」の空気に触れさせうる存在なのだと思っていてほしい。

「必要」の教育が大きく脚光を浴び、評価の対象となる一方で、影が薄くなる一方の「知」の教育。それはもはや学校教育の外に求めるしかないのか。それとも、学校教育の中で形を変えて残っていくのか。

その辺りはまだわからないけれど、個人的には学校教育の中にも残ってもらえたらと思っている。そうでなければ、教員免許は専門学校でも取れるようにした方が良いと思う。事実、幼稚園教諭の免許は専門学校や短大でも取得できる。教育技術や教える内容の知識を身に着けるのであれば、専門学校のようなシステムの方が効率がいい。

でも、現状まだ教員免許の要件が四年制大学卒業であるのだから、せっかくのその状況を活かした方がいい。もしかしたら、それが必ずしも必要でなくなるかもしれない。学校で教えるために教員免許が必須ではなくなったり、教員免許を持たない教師達の学校がどんどん増えるかもしれない。

それはそれでいいけれども、旧時代の人間としては、「知」の教育の居場所が、学校教育に残っていてもいいかな、と思うのである。


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吉村ジョナサン(作家)
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