苦しみと共に
なんとなく心の居場所がない時間が続いている。今日の目標は、「死なない」。そんな日ってあるよね。僕がSNSにすがってしまうのは、寂しいから、ってのは、わかってる。寂しさの影の自尊心。とにかくしんどいのに、いかんともしがたい。
埋没した感情の中で、ひたすらに眠る。眠りは救いではない。感情は正義ではない。言葉の警察が横たわった僕を抱き起こしてくれるまでは、生きていよう。それは選ぶことではない。ただ横たわるものはその時を待つしかない。じっと。苦しみながら。途方もない孤独を内面に写して。
インプットもアウトプットも、バランスが大事である。過剰摂取と沈黙も、栄養失調と多弁もよくない。では、沈黙と多弁はどうか。過剰摂取と栄養失調はどうか。我々は話しながら、聞きながら生きるのが良いのか。その過多は生きることを流動的にするが、流動的な個体を個と認識することは可能か。
自我の境界があいまいになると、人は生きることに不確かになる。惰眠は現世からの離脱を促すが、解脱には至らない。苦しみの中に溺れながら、わらをもつかむのはデジタルの中。くぼんだ意識の中で、僕は無表情に泣いている。
ピコンピコンと鳴るビーコンのように、僕の生は辛うじて闇の中にとどまる。闇の中から誰一人見えない虚空に向かって声を出し続ける。その苦しみと不安は闇に飲まれたものにしかわからない。今も闇の中で死を願う同胞よ。その痛みは誰にもわからない。その痛みは多くの人が持ち。それは半永久的に続くかと思われる。だから、それを、壊す、ために、世界を、壊す、間違った、苦しみに、満ちた、世界を、壊す。それが叶わぬ者がほとんどである。それが叶った者もまた、闇の中にさらに絡め取られ、肉体の不自由と現実の不自由を増幅され、再び死を望む。もちろん死は救いではない。それは一つの選択肢。選択肢を得ただけでも、ほんの少し隙間ができる。その隙間で、息をする。
苦しみの中で生きるのはなぜなのか。それが生きるということなのか。祝福は?希望は?救いは?あるのか?それは特権的なものにだけ与えられたものなのか。それとも自己評価の中で設定される欺瞞なのか。完全に沈黙した人生もないが、完全に生み出せる人生もないのではないか。闇の中に生きることよりも、予定された安定の中で生きるほうが、ずっと心地良く、快適で、生きることに前向きで、有意義ではないのか。しかもそこには愛も友情もないではないか。それなのに、なぜ闇の中で生きることを選択し続けるのか?そんな業を押し着せたのは誰だ?神か?仏か?精霊か?世界の意志か?宇宙の意志か?答えは出ないままで闇の中につなぎとめられるのはなぜか?楽観的な日常に戻してくれ!安定した計画された日常に戻してくれ!
闇の中でただ苦しみと共にある。それに抗うことも、外的世界に抜け出すことも諦めて、ただ、闇の中で苦しみと共にある。それこそが、私の業。私の役割。仕事。使命。ギフト。この苦しみが私の才能。闇の中で苦しみと生きることを要求し、その適性をもたらした存在に、その意図を示してもらえる日はくるのか。