いまだにNISAの良さがわからない
いまだにNISAの良さがわからない。
僕の周囲でもNISAをやっている人は多い。社会人のたしなみのようにNISAをやり、どのように運用するかを話題にしている。
NISAの出現によって、見事に投資は身近になった。僕から見たら、株を売買するのも、投資信託も、NISAもどれもこれも同じようなものに見えるのだけれど、「ニーサ」という響きは、見事にカジュアルさをまとい、多くの人の生活に入り込むのに成功したようである。
僕はどうもそのやり口が気に入らない。
せめて「株をやってるよ」という、ある程度専門性とリスクを負うことを備えた人だけの特殊な趣味だった言葉の響きのころは良かった。
ところが、「ニーサ」という響きには、その実態を捉えにくくするというか、「生命保険に入る」とか「持ち家を持つ」とか「車を買う」とか「テレビを買う」みたいに、本来当たり前じゃないのに、それがさも当たり前であるかのような空気の醸成を感じて、気持ちわるい。
一番気に入らないのが、しょせん各金融機関の金融商品なのに、それを国が表立って応援していることだ。それも、「これからの高齢社会を生きるには資産形成が必要だ」というプロパガンダとともにである。
いやいや、高齢化にともなった社会保障を何とかするのが、国の役割でしょ。そもそも、年金はどうなった。何のための社会保障だ。
社会保障とは、医療保険や年金など、国が仕組みとして用意している福祉制度である。高齢者や障害者、病気になったときなどに、現金を給付することで、生活を守ることができる仕組みである。
この仕組みがあることによって、高齢になって収入が減っても、障害や病気になっても、何らかの理由で収入がなくなっても、最低限度の生活を営むことができる。これは憲法で定められた、とても大切な仕組みである。
これらを実現するために、国は何らかの方法をとらなければならない。
その方法として、社会保障という仕組みを国は作った。
その中でも、国民年金法は1959年に制定されている。
それから65年が経ち、その運用が難しくなっているのは仕方がないようにも思える。「年金は破綻しない」とはよく言われるが、ここでの「破綻」とは「何らかの仕組みとして残る」ことを指すのであって、「国民の健康で文化的な最低限度の生活」を保障するものではない。
さすがに現状において、「将来は年金だけで生活できる」と信じている人はいないだろう。
その要因には、社会保険料の徴収総額が少なくなったことと、物価の上昇が大きいだろう。
働き手が減り、賃金は上がらず、徴収額は減る。一方で、高齢者に支給すべき生活に必要なお金は増えていく。このままいけば、この仕組みが破綻することは目に見えている。というか、既に破綻している。
その対策として、まずは社会保険料を上げ続けている。言ってみれば、税収を増やしている。もちろん、現役世代の暮らしは苦しくなるが、「将来の給付のため」という名分で押し通している。
※ 参考
そもそも拒否権はない。法で定められた仕組みで、企業も個人も納めなければならない。税とはそういうものである。(最近は国会議員だけは例外が認められるらしい)
ところが、いよいよそれでも限界になってきたというので、国が推進しているのが、投資なのである。
ただでさえ社会保険料を搾り取られているところに、さらに負担を強いるのだから、鬼の所業に思えるのは僕だけだろうか。
ここでポイントになるのは、投資は任意であるということである。社会保険料は義務だが、投資は任意である。
そもそも、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するために、「任意」の方策を進めてしまったら、それを選ばない、選ばなかった人の「健康で文化的な最低限度の生活」はどうなるのか。
ここでやってくるのが、「自己責任論」である。国が憲法を守れなくなってしまったから、国民各位は自己責任において、将来設計をしてくださいというのだ。
たぶん、NISAを運用されている方々は、このような状況を受け入れる、飲むことができた人達なんだと思う。
「もう国には頼れない。自分で自分の身を守らなければ」という高い意識で、資産形成に励まれているのだと思う。これは、特に扶養家族のいる方は断腸の思いで決断されていることだろう。
僕自身は扶養家族もおらず、そもそも運用できるような資金を持たないので、金融商品という選択肢がないのであるが、たとえ資金があったとしても、この流れに乗ることに抵抗を覚える。
国には頼れないというのはそうだとしても、そのための対策が「金融商品」であることは、果たして適切なのだろうか。
そもそも盤石と謳われてきた「年金」ですら、盤石ではなかったのだ。年金もある種の金融商品のような仕組みなわけで、任意だったら絶対買いたくない。
ましてや我々は「ニーサ」を信用して良いのだろうか。
大義名分のあった「年金」は、表向きはその破綻を否定している。そうせざるを得ないのは、国がその責任を負っているからだ。国民にその責任はない。だから、国は責任を負いたくないので、破綻を否定しているように思える。
だが、金融商品の責任は、商品を購入した「国民」である。購入した本人が責任を負うことは、各行各社が明示している。
だから、「ニーサ」を購入した国民が、それによってどのような負担を負おうが、国は一切の責任を持たない。
そして、「ニーサ」によって恩恵を受けられれば、それはそれで「国がバックアップしたんですよ」という、「やってやった感」を出せるのだから、なんて都合のよい仕組みなのだろうか。
今はまさに金融バブルの様相を見せている。
我々が生活しているときに扱うお金の流れを「実体経済」、株や負債といった実体のないお金の流れを「金融経済(資産経済)」と呼ぶことがある。
この両者は関係しながらも、全く違った様相を見せる。つながりながらも、別のものとして認識する必要がある。
今は日本の株価が上がる一方で、我々の身近な暮らしは苦しくなっている。これを、「実体経済と金融経済の乖離」と表現できる。
なぜこうなっているのかは簡単にはわからないし、現代に生きる専門家にとっても十分に捉えられるものではないだろう。
しかし、歴史を振り返れば、何度もこの「金融経済」に振り回されたことを知ることができる。バブル崩壊やリーマンショックは記憶に新しい。
そもそもこの苦しい暮らしの一方で、上がり続ける株価という異常事態こそが、金融経済の危険性を如実に表している。
そのような「実体経済と金融経済の乖離」を推し進める一つの要因が、まさに「ニーサ」だろう。
実体経済としての「家計」から、少なくない割合のお金が「資産」に回される。
この「資産」というのは、実体経済では扱いづらいものである。株券ではコンビニでジュース一本すら買うことができない。
われわれが手元にあって自由に扱えるお金が、「資産」という実体のないものに変えられる。そしてそれは、「金融経済」を回すためのエネルギーとして利用されていく。
我々は不安をあおられ続けていく。「このままだと老後の資金が足りませんよ」「いまのうちから資産を増やしていきましょうね」という言葉の力で、手元の現金は「資産」に変えられていく。
「資産」は実体のない、そしてその価値を変動させるものである。そしてその変動した価値がどうであれ、その責任は全て購入した人が負う。
結局は生命保険や医療保険と同じく、将来の不安をあおるビジネスなのである。
学校教育では、ありとあらゆる業界から「〇〇教育」のオファーが来るし、それを国が応援していたりもするのだが、その一つが「金融教育」である。
これは、金融経済についてその有用性と問題点を学ぶ……というのではなく、「資産形成の方法」「十代から考える資産形成」という中身のものが多い。
教育的な観点から考えればあまりに偏向的な内容に思えるので、できればお近づきになりたくないのだが、このような流れが起きているのは確かである。
「〇〇教育」というのは、社会問題解決型のNPOなどが推進しているものがある一方、事業会社によるマーケティング戦略の一環として行われている場合も多い。CSRという名目で、自社事業の広報や業界の宣伝になっていることも多い。
教師としては、このあたりに注意しながら、生徒たちにとって本当に必要なものを選ばなくてはならない。企業や業界のマーケティング戦略が先行している企画は、その内容にも問題があると感じることが多い。
「キャリア教育」の名のもとに行われた「ライフプランセミナー」という企画の内容が、女性に早期の結婚・出産を勧めることに終始したものだったときには閉口した。僕が企画に携わっていたら、こんな業者に任せたりはしない。
「主権者教育」の名のもとに行われた「投票体験」も、「投票所での投票の仕方セミナー」に過ぎないものだったときも、そういうことじゃない感が強かった。
「金融教育」もまた、「資産形成セミナー」ではなく、金融経済の基本的な知識として、その仕組みと課題を扱ってほしいと思う。
ちなみに、消費者契約法(第二章第一節第四条第三項第五号)では、若年者などが「不安をあおるビジネス」によって商品を買ってしまった場合には、それを取り消すことができると定められている。
ここでは「裏付けとなる合理的な根拠がある場合その他正当な理由がある場合」というのは除外されるので、一般的な金融商品では該当しないのだと思うけれど、何が「合理的な根拠」「正当な理由」なのかを判断できる能力がなければ、不当に不安をあおられる場合はあるだろう。
「ニーサ」は国が不安をあおると同時に優遇措置を与え、各金融商品の購買を促進することで、社会保障では補え切れない責任を「国民」に転嫁し、同時に金融経済を盛り上げることができる、一石二鳥の政策だと思う。
そしてこの流れは、金融商品を扱う事業者にとってまたとない追い風になっていることは言うまでもない。株式にせよ、生命保険にせよ、こういった不安の時代には有利な空気が生まれる。
だが、この空気によって、社会保障の問題を棚上げしてはならない。責任を「国民」に転嫁してはならない。
そしてまた、金融経済を指標にした国政にも危機感を感じる。株価が上がっても、我々の暮らしの苦しさは改善しない。
そしてまた、金融経済は変動の激しいものである。そして、予測不可能なものである。多くの専門家が予期できなかった事態が何度も訪れた。それによって多くの市井の人々が苦しんだ。その歴史から学ぶことはないのか。学んでの結果が今の現状なのか。
だから僕は、いまだにNISAの良さがわからない。