見出し画像

「月がきれいですね」問題と対話

夏目漱石の都市伝説的逸話に、「月がきれいですね」の話がある。

夏目漱石が英語教師の時に、生徒が「I love you」を「我 汝を 愛す」と訳したのに対し、「月がきれいですね」と訳すべきだと説いた話。英語を教授していた時期は様々だけれど、初歩的な英語だということは、松山時代のことだろうか。

英語を解釈するのに、漢文訓読的に取り扱うとすれば、「我 愛ス 汝ヲ」と単語ごとに訳した後、「我 汝を 愛す」と語順を整えるのが正攻法だと思う。しかし、夏目漱石はそれは日本語として不自然だとし、例えば「月がきれいですね」とでも訳した方が適切だと説いたらしい。

この話は証拠となる証言が残っているわけではないので、都市伝説的な逸話である。しかし、今ではずいぶんと広まっていて、「月がきれいですね」と言えば「I love you」の意味になると説く者も現れだした。

英語を日本語に訳すときには、意訳と直訳とがある。直訳は、単語の意味をなるべくそのままに訳し、文法的に整えて訳される。意訳では、それに前後の文脈に沿ったニュアンスが付け加えられたり、違和感がないような言い換えがなされたりする。

学校教育では、基本的に直訳が用いられる。英語でも、古文や漢文でも、意訳で捉えることはもちろんできる。しかし、意訳では、文法的根拠に基づいて訳したのか、偶然に意味が合っていたかの区別がつかなくなってしまう。生徒の理解度をできるだけ正確に把握して、補っていくためには、直訳を中心に学習活動を進めることが多いのだ。直訳の先に、意訳があると考える。

さて、「月がきれいですね」というのは完全な意訳だけれども、実際の英文の場面は想定しにくい表現だと思う。

例え、満月の月明かりの下で、親密な二人が月を見上げている中で、「I love you」と言ったとしても、それは「好きだ」とか、「あなたが好き」とか、「君のことが好きなんだ」とは訳せても、「月がきれいですね」とは訳せない。具体的な場面を想定してみると、どうしても不自然だ。例文を作ってみよう。

【例文1】
満点の星空の中で、満月が光を放っていた。
そこで、マリーはマイクに向かって言った。
「好きよ、マイク」
マリーはマイクに口づけをした。
【例文2】
満点の星空の中で、満月が光を放っていた。
そこで、マリーはマイクに向かって言った。
「月がきれいね」
マリーはマイクに口づけをした。

【例文2】はいかにも不自然だ。マリーが突然口づけをしたように読めてしまう。それはそれで通らなくもないけれど、全く解釈が変わってしまう。

この授業で扱われた「I love you」には、具体的な英文の文章があったとは考えにくい。具体的な場面で「月がきれいですね」と訳しても意味が通る文章は限られる。また、通ったとしても、先ほどの例のように場面の解釈が変わってしまう。そう考えてみると、これは「I love you」の一文を訳せ、という課題であったことが窺える。

生徒が「I love you」の一文だけを与えられて、漢文訓読的に直訳し、「我 汝を 愛す」と訳した。そのときに、夏目漱石は直接に愛を伝えない日本人像を想定しており、不自然だと感じられた。だから、「我 汝を 愛す」をさらに意訳して、「月がきれいですね」と訳した。「月がきれいですね」の訳に辿り着くためには、二つの段階を経ていることになる。

だから、「I love you」=「我 汝を 愛す」、「我 汝を 愛す」=「月がきれいですね」は成り立っても、「I love you」=「月がきれいですね」が成り立つとは限らないのだ。

もう少し別な例をあげてみよう。

【例文3】
月を見上げると、マイクはつぶやいた。
「君を愛している」
マリーはにっこり微笑んだ。
【例文4】
月を見上げると、マイクはつぶやいた。
「月がきれいだね」
マリーはにっこり微笑んだ。

【例文4】でも一見通じてしまう。だが、マリーが微笑んだ理由は、マイクの言う、月がきれいだということに共感したと取るのが自然だろう。


もちろん、「月がきれいだね」の中に「I love you」のニュアンスを想像できないわけではない。もしかしたら、そこに込められた愛情表現に、微笑んだのかもしれない。

だが、それを確実にするには、「月がきれいだね」が「我は 君を 愛す」という意味を含むことが、慣用的に行われていなければならない。慣用的とは、多くの人がそのようなニュアンスで捉えるということである。

慣用的に使われる言葉のことを、慣用句と言うことがある。例えば、「目をつぶる」という言葉がある。これは、そのままの意味で取れば、まぶたを閉じて、視界を閉ざすことを言う。しかし、慣用的には、見て見ぬふりをすることを言う。

慣用句は、前後の文章によって、そのままの意味で取るのか、慣用的な意味で取るのかを判断する。単独で使われたら、どちらの意味でも取れてしまう。例えば、次の例。

【例5】
マリーはしっかりとつぶった目を開けると、ゆっくり空を見上げた。
【例6】
マリーは、マイクの失敗には目をつぶった。

【例5】はそのままの意味、【例6】は慣用的な意味で捉えることができる。

仮に「月がきれいだね」を慣用句だとした時、前後の文章によって、そのままの意味で捉えるか、「我 汝を 愛す」の意味で捉えるかを判断することになる。

これは、いかにも正しいことのようだけれど、これは慣用句として捉えた場合だ。慣用句として捉えるためには、慣用的な用法、この場合は「我 汝を 愛す」の意味で捉える用法がある程度、誰もが用いている表現である必要がある。

だが、「月がきれいだね」は、「目をつぶる」や「口を閉ざす」、「頭をかかえる」といった慣用句と比べると、頻度の低い表現であり、一般的な表現とは言いがたいように思う。とても、多くの人が使って、定着した言葉とは言えないんじゃないだろうか。

ただ、そのような場合でも、慣用句的に扱われる場合がある。それは、故事成語的な扱いである。

故事成語とは、昔の出来事が由来となって成り立った言葉である。

例えば、「太公望」という言葉がある。太公望は、中国の怪奇小説「封神演義」の登場人物である。しかし一方で、「釣り好き」のことも指す言葉でもある。つまり、そのままの意味では人物名、慣用的な用法では釣り好きを指す。

背景には、封神演義の中の印象的な場面がある。後に周の国の軍師になる太公望は、自然の中で釣りをしながら、自分の仕える周王の到来を待っていた。釣り針の先は曲がっておらず、水面の上に浮いていた。つまり、目的は周王と出会うことであり、魚を釣ることではなかったのだ。

この有名な場面がもとになって、「太公望」が「釣り好き」を指すようになった。つまり、印象的なエピソードがあれば、慣用的な言い方が広く知られていなくとも通じるという場合があるということである。封神演義の話を知っていれば、次の例文のような場合には、「太公望」が「釣り好き」を指すと理解できることになる。

【例7】
マリー、君はまた早起きして釣りに行ったのかい? 本当に君は太公望だな。

これは、封神演義の内容、せめて太公望の人物像を知っていなければ、何を言っているのかは伝わらない。

このような慣用的な表現は、現代のマンガでも多く見られる。キャラクターの名前や台詞を、慣用的に使うことがある。

【例8】
マイク、ちょうど良かった。こんな便利な道具があるのね。用意してくれて助かったわ。ありがとう、私のドラえもん。

この場合は、どう考えてもマイクはドラえもんではない。だが、ここでは、ドラえもんの便利な道具を与えてくれる特徴を踏まえて、慣用的に「便利な道具を与えてくれる存在」という意味で、「ドラえもん」と表現したと考えられる。

「ドラえもん」という言葉が、この用法で多く使われているとは思えないが、ドラえもんの性質がわかっている人であれば、慣用的な用法を推測することができる。

もし、「月がきれいですね」にも背景となる話があれば、意味が定着していなくても慣用的な用法が成り立つことになる。

そこで登場するのが、夏目漱石である。夏目漱石の都市伝説的逸話を知っている人であれば、「月がきれいですね」を「I love you」の意味で解釈する可能性が出てくる。

そこでは、夏目漱石が本当にそんなことを言ったのか、その表現が正しいのか、といったことは問題ではない。その都市伝説的逸話を知ってさえいれば、連想できる。

ただ、そこで大事なのは、その場面やストーリー、キャラクターや台詞がどれだけ知られているかということだ。

「太公望」の慣用的用法は、中国四大怪奇小説にも数えられる封神演義の存在感に支えられている。「ドラえもん」の慣用的用法は、国民的マンガであるドラえもんの存在感に支えられている。

それに比べたら、夏目漱石の都市伝説的逸話はどうであろう。出所もわからないエピソードに過ぎない。

そもそも、夏目漱石のような人が「I love you」という例文をを教材として扱うこと、それに「月がきれいですね」という訳をつけることには、多少の違和感はある。

もし、仮に真実で、実際に授業を受けた生徒が語り伝えたものだとしても、それはその場限りのもので、それほど流布されるような逸話でもないような気もしてくる。

授業を何百時間もやっていれば、生徒への対応の中で、不本意な説明や、誤解を招く表現をしてしまうこともある。その場の流れ、その場の相手であれば伝わるものも、一般化されてしまうと、いろいろと不都合なことが出てくることはあるものだ。

もしかしたら、実際の場面においては、より詳細な背景の説明があったかもしれないし、留意点もあったかもしれない。しかし、それは都市伝説的逸話では語られていないのだ。

だから、どうもこの話を根拠にして、「月がきれいですね」の意味を慣用的に用いるのは、気が引けてしまうのだ。まるで、夏目漱石の失言をさらしあげているようにすら感じる。

もしかしたらそのうち、語源すら曖昧になって、「月がきれいですね」=「I love you」という慣用句としての説明が、どの国語辞典にも収録される時が来るかもしれない。

ただ、その時であっても、できるだけ背景となる話のことは、知っておきたいという気持ちがある。

「太公望」はただの釣り好きというだけではなく、釣果を気にせず、釣る行為自体を楽しみ、場合によっては釣り針を垂らさなくても良いようなニュアンスを持っている。

「ドラえもん」には、いつも自分のことを励まし、時には叱り、困った時には助けてくれる友人のようなニュアンスを持っている。

このようなニュアンスこそが、慣用句をわざわざ使うことのおもしろさでもある。そうでなければ、別なもっと直接的な表現を用いた方が、中心となる意味は相手に伝わるはずだ。そこにニュアンスを付け加えたり、ほのめかしたりするところに、慣用句の価値はある。

このようなニュアンスを失わせてしまったり、全く違ったニュアンスをまとわせてしまうことがあるので、僕は「格言集」や「名言集」の類が嫌いだ。限られた紙面の中で、その背景となる出来事を伝えることは難しい。特に、抽象的な言葉は、誤解を招きやすい。

「超訳」という言葉が出てきたのは最近だろうか。哲学書や古典的な書物を、直訳でも意訳でもなく、「超訳」したものが売れている。これらは、言葉を換えれば、現代の作家が古典を自分勝手に解釈した書物である。

もちろん、その方が受け入れやすいし、読者も自分勝手に解釈して、楽しむことができる。入門書としては調度よい場合もあるだろう。だが、それが原典のニュアンスなのだと誤解してしまう読者も出てきてしまう。その点で注意が必要なジャンルでもある。

そんな「超訳」はおろか、都市伝説的逸話をもとにした「月がきれいですね」の慣用的用法は、どうにも受け入れがたく感じる。せめて、全ての辞書に慣用表現として収録されるようになるまでは、不用意に用いるべきではない用法だと思う。

これは決して、月夜の晩に相手に好意を伝えるために、「月がきれいですね」と表現してはいけないというわけではない。それを夏目漱石の都市伝説的逸話をもとにした慣用表現だとして、「I love you」の意味として受け取ってもらうことを期待してはならないということだ。

と、なぜこのように「月がきれいですね」の慣用的用法に違和感を持ったかというと、きっかけがある。

僕の友人の女性が、恋人と別れることになった。きっかけの一つとして、「月がきれいですね」を「I love you」という意味だと解釈できなかったことがあったというのである。

ある時恋人から、「月がきれいだね」と写真付きのメールが届いた。その友人は夏目漱石の都市伝説的逸話は知らず、そのままの意味で受け取り、「とってもきれいね」と返信したらしい。

相手としては、愛の告白だと受け取って欲しかったのだが、そうは受け取ってもらえず、慣用的な意味を知らなかったことが不満だったらしい。その時を堺に、すれ違うようになっていったそうだ。

友人の交友関係はともかく、「月がきれいですね」の解釈については、違和感があった。その理由は、これまで述べてきた通りである。

加えて、「知らない」ことを「伝わらない」理由にする姿勢も気になった。

恋人同士だからといって、見ている世界が同じではない。互いに知らないことや、違った理解をしていることはたくさんある。だから、僕たちは表現を変えたり、知識を互いに教え合ったりしながら、コミュニケーションを続けていける。

相手が「知らない」ことがあるということは、自分の表現が適切ではなかったということでもある。そこで、表現を改めたり、自分の表現を理解してもらったりしながら、コミュニケーションを取れるようになっていく。それは、とても時間のかかることだ。

教師と生徒の関係も同じで、教師の言葉が生徒に通じなかった時に、言葉を変えたり、教師の言葉に慣れていってもらったりを繰り返して、対話できるようになっていく。

その対話の先にあるのが、学問の言葉であり、学問的思考である。教師が一方的に学問の言葉を用いていては、生徒はいつまでたってもそれを理解し、用いることはできないだろう。

だから、教師と生徒が互いに言葉を交わし、ぶつけ合う過程はとても大事なのだ。「知らない」ことを一方的に押しつけること、ましてや「知らない」からといって一方的に関係を絶つというのは、もったいないことだと思う。

ただ、それが常に必要だというわけではない。対話はけっこう疲れる。いろいろなものを消費する。不愉快な感情が沸いてくることもある。それでも対話したいという関係性であればこそ、対話するのだ。

だから、彼女は恋人と別れて良かったのかもしれない。相手は対話するほどの価値のない関係だったとも言える。そんな不毛な対話をするくらいなら、周囲の友人たちと対話をする方が、よっぽど有意義だと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

吉村ジョナサン(作家)
サポートしていただければ嬉しいです!