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息を吐く

6月中旬から下旬にかけて、ずいぶんと調子がわるかった。メンタルの。

必ずしも原因があるとは限らないのだけれど、一つのトリガーがカード用口座の残高不足でカードの利用停止をくらったことだった。前にもうっかりやってしまったので、引き落とし日は確認していた。けれど、思ったよりも若干引き落とし額が多く、若干残高が少なかった。結果、思っているよりも支出が多く、所持金が少ないように感じた。それに、カードに紐づいた支払いの手続き不履行の知らせが次々に来て、面倒くささに卒倒した。

しばらくしてそこに給料が振り込まれたのも良くなかった。月の途中から働き始めたこともあって金額は少なかった。想定通りだったが、想定通り過ぎて、泣いた。

ただでさえ貧困妄想に見舞われがちなのに、リアルな貧困はメンタルに直結する。全く追い詰められていなくても冷や汗をかくくらい心配になるのに、具体的な数字を突き付けられると、それはもう頭がぐらんぐらんする。

それでも、貧困妄想には慣れているので、あまり深刻に受け止めすぎないようにとは意識していた。確かに収入は少ないけれども、生活はしていけている。芸人さんたちの貧乏エピソードに比べたら、何のおもしろみもないような状態だ。

理性ではそうわかっていても、気持ちが軽々とそれを飛び越えて、奈落の底に落ちていくから、うつというのはやっかいなのだ。

気分の落ち込みはコントロールできないので、ひたすらその起伏を自覚しながら、生活を合わせていくしかない。きっかけとして考えられる出来事はあっても、それが全てではない。例え問題が解決しようと改善しないことはあるし、状況が全く変わらなくとも改善することだってある。

だから、ひたすら毎日をやり過ごしながら、ここ数週間を過ごしていた。

ただ、やっぱりオリンピックやらLGBT法案やら選択的夫婦別姓の話題は、ちゃんと僕のメンタルを削ってくれた。基本的にある種の義憤に抗えない自分としては、これらの出来事や報道の態度は、どうあっても避けがたいストレッサ―だった。

そんな中で、口腔環境の悪化や、過眠による仕事への遅刻などもあり、少しずつ生活に実害が出ていった。それがまた新たなストレッサ―となって、生きることを辛くしていった。

それでもそんなときには、ひたすら日々を過ごすしかないことはわかっている。結構苦しいのだけれど、とにかくやりすごすことで、いつのまにか改善していくことはわかっていた。

状況を打破するために解決しなければならない問題は、ほとんどない。体調の悪化や悪循環によって滞る問題や、人に迷惑をかけることはあるかもしれないけれど、それほど致命的なものではない。そもそも、世の中に致命的な問題なんてほとんどないのだ。

ほとんどの問題に思えることは、体調さえ改善すれば、何の手間もなく解決できることであったり、問題でさえないことだって多い。

だからとにかく、ここ数週間はなんとか過ごしてきた。ひたすらTwitterを眺めたり、YouTubeを行ったりきたりしながら、重たい時間をやり過ごしてきた。

そんな感じだったこともあって、文章を書くという行為からも離れていた。古典文法の本を書いたのもこの時期だったけれど、あれは生徒のいない淡々とした授業のようなイメージで、自動書記のようにして書いていた。

そして今、久しぶりに重い腰を上げている。

この間、書きたかったことがないわけではない。いくつかの演奏会や美術展に行ったことや、ドラゴン桜のこと、新しい古典教材のアイデア、その時々でこれは記事にできそうだと思ったことはたくさんあった。けれど、それを書き始めるには至らなかった。

必要なのはネタではなく、健康なのだ。

そんな中で確かに文章を書くことに対するハードルが上がっていたので、思い切って今日は書いている。リハビリのようなものでもある。期間的には短いけれども、文章を書けない状態というのは、僕にとっては呼吸困難にも等しい状況なわけで。

体調がわるいから書けないのだけれども、書けるようになったら体調が良くなるのかもしれないというよくわからない論理が成り立つような気もしてきて、今は書いている。

とにかく、書くことのハードルを下げるところから。息を吐くところから、始めていこう。

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吉村ジョナサン(作家)
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