【読書のきろく】非常時のことば
「源ちゃん」と言えば、高橋源一郎さん。
そう語る地域の方から借りた本です。いつもお世話になっている人。
『小説トリッパー』という雑誌で、文章教室の連載をされていた高橋さん。その連載中に起きたのが、東日本大震災。ニュースを見た僕たちは絶句しました。そして、いろんなことを感じました。何かやらなければと行動を起こした人もいれば、何もできていない自分に疑問を感じた人もいます。
連載を続ける高橋さんは、文章教室に書く内容や、自分の気持ち、感情が、震災前後で変わったことを感じます。
震災前後で、語られる言葉が変わる。読めなくなった文章と、読み続けられる文章がある。そこに立ち止まり、何が変わったのか、どこが違うのかを、教室で授業を受けているように一緒に考えられる一冊です。
大量虐殺の現場を見て書かれた小説や、水俣病の取材から生まれた著作、政治家の演説、人間とくまが織りなす短編小説など、たくさんの文章を読み解きます。
そこから、心を打つものと、そうでないものの違いが浮かび上がります。
どれも考えさせられるものですが、グッと心をつかまれたようになったのが、子どもの頃の「死」の気づき。
ぼくも、いまでも覚えている。
その「理解」は一瞬のうちにやってきた。
夜、布団の中で寝ているぼくに、その認識が、突然生まれた。ぼくは死ぬのだ。絶対的に。必然的に。そして、一度も味わったことない、逃れることのできない恐怖が、僕を襲った。
朝になると、恐怖は、かき消すようになくなっていた。世界は、以前の優しさを取り戻していた。だが、夜になると、また恐怖がやって来た。
>『非常時のことば』 p.189より抜粋
僕も、覚えています。ベッドの上で、ひとりで怖くなって、じっと耐えていた感覚。そして、起きて活動しているときでも、ふと「死」があるならなにもかもが無意味ではないのかと頭をよぎる瞬間。
それとどう折り合いをつけたらいいのか、折り合いをつけることができるのか、絶対的な答えは、僕にはまだ分かっていない気がします。
高橋さんは、だから、死に関する文章、死と同じような性質を持つものについて書かれた文章、もしくは、はかない命と向き合う文章は読むことができるのではないかと言います。
足下に目を向け、根を張るように語られたもの。小さい子どもに寄り添い、やさしくささやきかけるようにつづられたもの。
ことばは、文字である前に、音。だから頭の中をぐるぐるとめぐるんでしょう。
この本の「非常時」は、2011年の東日本大震災。2020年の今も、また別の「非常時」にあります。
毎日のニュースで届くのは、新型コロナウイルスの感染者がまた過去最高になったという話や、令和2年7月豪雨で日常が変わってしまった被災地の様子。
ことばを失うような感覚や、世間の目を気にした口に出していいか否かの判断に、言いようのない違和感を感じる人は、少なくないと思います。僕も含めて。
だから、あえてことばにしてみたい。何かのことばにできるまで、立ち止まって悶々としてみたい。そう思わせてくれました。
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読書のきろく 2020年45冊目
「非常時のことば 震災のあとで」
#高橋源一郎
#朝日新聞社