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フリーインプロの抱える問題点① 自由と平等について

なんでもありの即興パフォーマンスと呼ばれる物やいわゆるフリーインプロと関わって現在は少し離れておりますが、その問題点などをつらつらと、、

今回は自由と平等についてです。

自由について

フリーインプロの面白みは分からないものとの遭遇ですが、自由だとか誰でもやれるとかよく言いますが、結局個人の資質の部分が大きいよな、とか。

色んな人とやりましたが、分からない物に対する反応が受け入れか拒絶かで、そこが才能の線ですね。

音をしっかり聞くとか、画を見るとか、動きを感じるとかこれは音楽でも踊りだろうが絵画だろうが写真だろうが当てはまる話であり、ここはフリーインプロに限らずの話です。

ここはかなり顕著で聞こうとしていない人、聞こえていないほど自分は聞こえているという認知を持っていることが多く、自分も物凄く気を付けないといけない事項です。

そして本当にそこを伝えるのが難しく、ここは完全に各々の才能だなと思います。

分からないものへの反応として怒りは反応あるのでまだましですが、わからないものはわかることができないという古代ギリシャ哲学で出る有名なパラドックスの話みたいなのが多々あり、、

多ジャンル絡むと特に専門外を理解しきってる人はおらず、自分はそこを理解しきったを目指していた感がありますが、膨大な時間がかかります。

また、いい悪いはあるんでしょうが観客には分かりづらく、ほとんどの判断を観客に委ねるところも難しいですね。

やってる側は自由な事をやっているはずが観客に求められる教養が膨大になり自由が消えてなくなります。

平等について

平等化路線での語り口もありますが、フリーである以上そこも中々難しく、例えば自分はインドラーガとかやってるけどそのコンテキストを扱った場合、それを知らなければ鳴ってる音は分かれど、奥で鳴るかもしれない音、鳴ってない音への反応が返ってくることがないわけで、、

鳴った音は等価で扱えますが、鳴ってない音は個人が抱える量が限定されてしまい等価ではないわけです。

コンテキストがある以上聞き方もありますしね、そこは訓練が必要で才能もあり平等ではないのかな、と。

また、自由と平等は同位置にある場合、矛盾します。
その辺りは哲学の話をつまんでいくと辿り着くかと思います。

ノイズ系の楽器が扱いやすいのはコンテキストやイディオムがなくて鳴ってる音だけでいいのと、それが誰でもわかるからでしょうね。
自由で多様性溢れる即興的な手法なんてはずですが、結局音のパルスのみの音楽になっていく現実。
こうしたノンイディオムとイディオムの区分けが存在してしまう時点でフリーなのかというところも疑問だったりしています。

今のところの結論としては、作品化よりも作曲なり振り付けなりの練習としてが一番よいのかなと。

よくいわれていた?即興は手段である、といったのはそういう意味合いだと受け取っております。

強いて言うと、それなりに意義のある曲書いた人とか振り付けを作った人等、周りが分かる作品作った人がやったとき、その作品を知っている人たちがその経緯やプロセスを見て理解する為のものなのかなと。

この詩はボブディランだったかな

自由な物などなにもない、鳥でさえ空に繋がれている。

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