【散文】ありのままに見る
『暗夜と小さきもの』という文中で、『自分を浄化し、無にして、神自らが働くようにする。』 ということが祈りの深化である、と書きました。
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暗闇に迷うとき、私たちは荒みと無味乾燥の中で、自分の弱さや非力さ、惨めさなどを痛感します。これこそが謙遜や、エゴの浄化につながっていく可能性を秘めているのです。
このように書くと、日本人の多くは「自分なんて……」という自己卑下に繋がってしまうところがあるように思います。過剰に自分を貶めるようなことも、偏ったものの見方です。暗夜は単なるメランコリーではないし、謙遜は自己卑下とは違います。
より深い自己認識をしていくことで、傲慢さから離れ、自分の弱さも自分の限界もありのままに見つめてゆくことができます。心にかかった靄を透明にしていくことと言えるでしょう。この過程がエゴを手放していくということではないでしょうか。
禅で使われる「十牛図」には、第8図「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」という絵があります。「絵があります」とは言っても、ただ円が描かれているだけの無です。
悟りを得る段階が、牛を捕まえようとする人の絵で示された十牛図ですが、この段階になると、『牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界』と言われています。
まるで「あたまのわるいひと」みたいですけど(笑)、実際紙一重なところはありますね。
禅と比較されることの多い、中世ドイツの神秘主義者マイスター・エックハルトは、神は無であるということを説いています。エックハルトにとって、神との合一は無そのものに溶け込むことです。
暗夜を通り抜けた先のブレイクスルーとは、主体と客体が消え、見るものと見られるものが消え、内と外という境界も消えます。自分では確かなものだと思っていた事柄が、実は案外たよりないものだったということに気が付き、また真理について何も知り得ないのだということにも気がつくかもしれません。
このとき、慢心から離れた透明さで、ただ無の中にとどまるのでしょう。
エックハルトは言いました。『神は成り、神は消える』。