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あ、ごめん、それ言っちゃダメなやつだった

「『もしもテレビに出るなら』って……。何を書いたらいいのだろう」

小学5年生の息子、毎日の宿題として100文字程度の「日記」が課されている。普段はお題なしで自由に書いていいのだが、その日のお題は「もしもテレビに出るなら」。
それを聞いた私は「えっ、今どきテレビなの?メディアに出るなら『もしもYouTuberになるとしたら、どんな題材で動画を撮影して編集するか』でいいじゃんね」と思わず口にしてしまった。
「いや、お題はテレビだからテレビで考えないと。テレビ、テレビ……」
私に似てるんだか似てないんだか、融通が利かない息子である。

夫が仕事で不在である平日日中、我が家はテレビを本来の用途として使うことはまずない。使うことがあったとすれば、息子が任天堂スイッチで遊ぶときの外部モニターとして使うことくらいである。55インチの外部モニターでゲームをできるのはさすがに迫力があるらしく、同級生の子供たちにもなかなか人気である。

というわけで、朝晩以外本来の役割を果たしていないテレビ。テレビをほとんど見ていない息子が「もしもテレビに出るなら」というお題にどのような答えを出すのか……芸人というキャラでもないし、ドラマをほとんど見ないので俳優という選択肢もないはず。アナウンサーは知ってるにしてもさすがにないだろう。なぜなら彼は、読み書きに困難があり、学校の教科書音読の宿題も苦労の連続であるから……と私は勝手に予想していた。

「オレ、気象予報士になりたい。」

私の予想のはるか斜め上を行く彼の答えに、私は思わず「アナウンサーより難易度高くね?」とつぶやいてしまった。
そして「いやいやいや、アンタ、勉強できないでしょ。気象予報士って学年のトップクラスの頭脳がないと……」と言ってしまってからこれは言っちゃダメだったことに気が付き、続きの言葉が口をついて出ないようにとっさに自分の口を自分の手で塞いだ。

時すでに遅し、息子はその日記を書きかけていたところを消そうと、消しゴムに手をかけ日記を消し始めていた。
私は彼が消す行為を無理やり止めてひたすら言葉を続けた。
「あー、ダメダメ、これはお母ちゃんがダメ。マジでダメ。本当に悪かった。本当にごめん。これは君の可能性を摘む行為だ。実際に気象予報士になるかどうかは別問題。気象予報士になってみたいという気持ちを持つことはキミの自由だ。ホント申し訳ない」

それを聞いた息子は、それでいいんだ、そっかそれなら……とつぶやきながら

ニュース番組に気象予報士として出たい

という内容の100文字日記を書き上げたのである。

私は先日、「13歳からのアート思考」を読んで、「興味のタネに忠実に従い、探求の根を伸ばすことで表現の花を咲かせる」というところにいたく感動したばかりじゃなかったのか。
さっきの息子にかけた一言は「興味のタネ」を私が摘み取ってしまう行為ではないのか。

まさにドリームキラーである。
私が一番なりたくなかったドリームキラーになっていたことに気が付いて、私は愕然とした。

私は、両親の無意識下における「心配」という名目のドリームキラーぶりに嫌気がさしていた。
子どもが失敗するところを「親が」見たくないからという理由で出来ない理由を探し出して提示し、自分の思う方向へ導こうとする。
大人になるまでさんざん先回りして子どもに失敗をさせてこなかったのに、大人になってから「社会人になったのだから自立しろ」って言われても失敗が怖くて独り立ちなんてできるわけがない。私に限らず、そんな大人は私の知る限りだけでもたくさんいる。

私が子供を産んだら、ドリームキラーにだけはなるまいと心に誓って子育てに取り組んできたつもりである。
しかし、「親は自分が育ったように子を育てる」というのもあり、意識して気を付けていないと、うっかり子どもの「興味のタネ」を摘み取ってしまうのだ。

とはいえ、私も人間。親としてはまだまだ「10歳」なのである。息子が育つとともに私も親として育ち、人間としても育ちなおそう。もし、うっかり失敗してしまったら「ごめんね、それは言っちゃダメなやつだったね」と非を認めてやり直せばいいだけなのである。

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