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平安朝の寵愛争い―内裏後宮に共住する后妃たち― 栗本賀世子
一条天皇をめぐる定子・彰子など、NHK大河ドラマ「光る君へ」でも中心的な題材として描かれた天皇の寵愛争い。様々な人の政治的思惑や利害関係が絡むだけに、その内実は熾烈を極めたことが容易に想像される。嫌味や誹謗中傷、いじめなど、ドロドロとした後宮内での人間関係についていくつか紹介しよう。
この度、刊行されることになった拙著『源氏物語の舞台装置』(歴史文化ライブラリー)では、平安時代の内裏にあった一二の後宮殿舎(天皇・東宮〈皇太子〉のキサキや皇子女が住む後宮の建物)を扱った。後宮殿舎は紫式部の書いた『源氏物語』でもキサキの呼び名(「弘徽殿女御」や「桐壺更衣」など)となり、また、物語中の重要な出来事(例えば帚木巻の雨夜の品定め、花宴巻の朧月夜と光源氏の逢瀬の場面など)が起こる舞台として用いられ、重要な役割を果たしている。この本では、史上における内裏後宮の殿舎の使用例を調査した上で、『源氏物語』などの平安朝物語の後宮殿舎設定の意図を読み解いた。後宮殿舎という視点から物語を読むことで、物語の新たな面白さが見えてくるということを認識していただけたら幸いである。
さて、本エッセイでは、その内裏後宮で共住していたキサキたちが天皇の寵愛をめぐって激しく争っていた事例について、いくつか見ていきたい。
まず、歴史物語『大鏡』(頼忠伝)の話は、史上の円融朝のキサキ同士の対立を示すものである。円融天皇には有力な二人の女御(関白藤原頼忠女の遵子と藤原兼家女の詮子)がいた。天皇は関白の娘の遵子を皇后に据えたが、天皇の唯一の皇子懐仁親王(後の一条天皇)を生んでいた詮子とその父兼家はこのことを深く恨んでいた。遵子が皇后に立てられた後、宮中に参内する途中で、その行列が東三条の兼家と詮子の邸の前を通りがかったが、そこで遵子の弟藤原公任が、「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ(こちらの女御はいつ后にお立ちになるのでしょうね)」と邸を覗き込んで自慢げにつぶやいたため、兼家たちは大変無念に思ったという。ところが、詮子の皇子が一条天皇として即位すると、詮子は皇太后に立てられて参内することになり、その行列のお供をしていた公任に、今度は逆に詮子側の女房、進内侍が「御妹の素腹の后は、いづくにかおはする(ご姉妹の「素腹の后」――生まず女の皇后はどこにいらっしゃいますか)」と嫌味を言い返し、公任は失言を後悔したのである。この話の真偽は不明だが、遵子が「素腹の后」というあだ名をつけられていたという話は、『大鏡』と同じく歴史物語の『栄花物語』にも記されている。
次に、史上の村上天皇の女御で別名「斎宮女御」として知られる徽子女王の歌集、『斎宮女御集』に見られる話を取り上げたい。徽子の父重明親王は、徽子の母が亡くなった後、藤原師輔の娘の登子を後妻に迎えた。しかし、登子は大変美しい女性で、宮中で暮らしていた姉の皇后安子のもとを訪れたところ、その夫の村上天皇に見初められてしまう。安子と重明親王が亡くなった後、登子に懸想していた天皇は彼女を宮中に参内させ、憚ることなく寵愛した。『斎宮女御集』には、新たに入内した登子に関して複雑な思いを抱く徽子の歌が残されている。それが、「いかにして春の霞になりにしか思はぬ山にかかるわざせし」で、歌の意は、「一体どうして浮気な春の霞におなりになったのか。思いもかけなかった山にかかり、このようなことをなさったのか(亡き父宮を裏切って思いがけず私の夫である村上天皇と関わり始めたのか)」というようなものである。また、次のような話も見える。西本願寺本と呼ばれるある写本の詞書によると「又かの御方(登子)より藤の花を朝な朝なこきとらせ給ことを憂がりけるを聞き給て」とあり、登子方の女房が徽子の住まいの庭の藤花を嫌がらせのように荒らしたため、徽子に仕える女房が憤ったのだという。西本願寺本の本文では、場所がどこかわかりづらいが、別の系統の写本では詞書に「内にて」とあり、それによれば内裏(内)での出来事ということになる。女房たちの不満を聞いた徽子がなだめるように詠んだ歌が「朝ごとにうすとは聞けど藤の花こくこそいとど色まさりけれ(朝ごとになくなるということですが藤の花はむしりとられるといっそう色濃く咲くことです。――そのままで放っておけば朝ごとに色薄くなってしまう藤の花だけど、むしりとると前よりも色濃く咲くことですよ)」であった。登子と徽子、かつては義理の母子として交流のあったはずの二者の関係が険悪になっていることが読みとれる。
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最後に挙げるのは、平安時代の長編物語『うつほ物語』のキサキいじめの話である。ヒロインにして絶世の美女あて宮は時の東宮(皇太子)に入内し、寵愛を一身に受けていたが、そのせいで他の古参のキサキたちに憎悪されてしまう。ある時、妊娠したあて宮が里下がりすることになったが、そのあて宮に対して、ライバルのキサキたち(嵯峨院皇女の小宮と太政大臣源季明の娘)の局から、罵詈雑言を浴びせられる。キサキたちは、あて宮を「ここらの年月日燃えざりつる死人(なかなか火葬されなかった死人)」と呼んで死者に例え、また「桃楚して、よく打たばや(邪気を祓うという桃の枝で打ち据えないと)」などと口汚く罵り、邪魔なあて宮が里下がりすることを、「ようやくあの女がいなくなる」ともろ手をあげて喜んでいた。
以上のように、キサキ同士の諍いはよくあることであり、特に競争相手のキサキを誹謗中傷する、ということが最も多かった。悪意あるあだ名をつけたり、子がいないことや皇后になれないことなどを貶めたりしていたようである。
さて、平安時代、貴族の結婚は、一般的に夫が妻のもとに通う形から始まるとされている。後に、最も上位の妻(正妻)のみが夫と同居することはあったものの、その他の妻たちは、生涯夫と別居して暮らしていた。有名な『蜻蛉日記』作者の藤原道綱母などは、正妻になれず、常に夫の訪れを待つしかない日々の嘆きを日記の中で語っている。
対して、天皇や東宮の場合は、臣下の貴族とは異なり、その住まいたる内裏にキサキたちが入るという結婚形態だった。夫の天皇・東宮と複数のキサキが同居していたのである。夫との距離は近くなったものの、はたしてキサキたちは幸せだったのだろうか。同居することで、夫の姿をまったく目にすることができない、夫が何をしているかもわからない、ひたすら夫を待つしかない状況からは解放されたかもしれないが、一方で他の女性を寵愛する夫の姿を間近で見なければならないという苦痛が新たに生じたのだと考えられる。そのようなわけで、天皇・東宮の後宮では嫉妬や憎悪がうずまき、キサキたちの間に先述のような熾烈な争いが起こったにちがいない。拙著『源氏物語の舞台装置』では、後宮殿舎を舞台とした様々なキサキのエピソードを紹介しているが、今回触れなかった他のキサキのいじめの事例や、天皇とキサキの夫婦生活の実態などについても、詳しく触れている。ぜひ手に取って読んでいただきたい。
(くりもと かよこ・慶應義塾大学文学部准教授)