言葉あれこれ #12 文学
文学とはなにか、とは、いきなり大仰なテーマをぶち上げてしまった。
先日「童話とは」を考えて以来、私の頭の中に浮上してきた「文学とは」というテーマ。文学フリマへの出店日が近づいてきて、いよいよ、文学ってなんだろう、が頭から離れない。
答えはもちろん、出るわけがない。
そもそも私のようなものが答えを出そうとすること自体が不遜。
とりあえず「文学」というものを考えてみたい、と思った。まあそれでいいじゃないか。「文学」を考えること、それが「文学」だと言えなくもない。こじつけだけど。
「文学」の辞書的意味
久しぶりに家にある広辞苑(第七版)をひいてみる。
論文を書こうと思ったら、まず辞書(定義の確認)。これ基本。笑
なるほど、芸術的、学問的であること、あるいは学問する人であることが、文学における重要な鍵らしい。
最近は気軽に読める本が増え、良く売れているようだが、「こんなのはただのエンタメだ」などと言われるようなので、エンタメも調べてみる。
簡単。あっさり。これだけ。That's it.
文学とエンタメの間には、それほどに深い溝があるらしい。
では、その区別はどこでつけることができるのだろう。最近は、学術書はあまり書店に並ばないし(売れないから)、学者がわかりやすくかみ砕いて面白おかしく書いた本というものも氾濫している(売れるから)。そうなると今の基準というのは「売れるか、売れないか」なんだろうか。「俺か、俺以外か」みたいな感じなんだろうか。
「学」と「楽」
ぱっと見、辞書的には「学」と「楽」の違いがあるようだ。
勉強と遊び。
日本おいては昔から、大雑把にいうと「勉強=苦しい・努力=OK」「遊び=楽しい・耽溺=NG」ということになっている。
机に座ってする勉強は、かつては一部の人たちだけのものだったから、義務教育というものが現れる以前、一般庶民においての「学」は「労働」だったかもしれない。
義務教育の根付いた現代日本でも「勉強」の後は「労働」であり、「労働」するために「勉強」が必要で、場合によっては資格取得を義務とされるような生涯「勉強」しなければならない「労働」も多い。そういった「学びを強いられる労働」はかつてのホワイトカラー職ばかりではなく、最近は技術革新でどんな職業でも学ばなければ仕事がなくなる事態になっている。
学生ばかりが学ぶ、とか、就職したら歯車だからルーティーン、とか、定年退職まで安泰、なんてことはもはやない時代。
東大生の母親が「うちの子に勉強しなさいなんて言ったことは一度もない」と言うのを良く聞くが、そういう聡明なお子さんを持った親御さんは別として、「遊んでばかりいないで宿題したら」と言ったことのない親はほとんどいないのではないか。
苦しいのは百も承知。楽しくないのは当たり前。でもやらなければならないということになっているのが「学」である。
では遊びの分野は、どうだろう。
こちらもかつてはお金持ちが有利だったわけだが、古今東西、様々な活動で人々は「遊び」を楽しんで来たし、うっかりすると遊びに流され窮地に陥り身を持ち崩す人間、というのは絶え間なくいた。なにしろ遊びの範囲はとてつもなく広い。空想、会話、手遊び、武道やスポーツや観戦・観劇、漫画やアニメやゲームやコスプレ、飲酒や女遊びに賭けごと、マネーゲームまで、現実を忘れるほど楽しいことは、数限りなく存在している。
昨今ますますそのすそ野は広がり、たくさんの人が多くの娯楽を享受できるようになっている。その享受の仕方も、技術の発達によって変化を遂げている。
私にとって身近な「読書」「文芸」という趣味を例にとれば、出版という手段を経なくても、本を作ったり、読みあったりして楽しむことができるようになった。他の分野でも、アマチュアがプロのように楽しむことができるようになってきている。
なんのために学ぶのか
ヨハン・ホイジンガは1938年に『ホモ・ルーデンス』の中で、人間とは「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」のことであり、人類が生んだ文化は遊びの中から生まれたと言っている(らしい。解説を読んだことがあるけれど原書や訳書全文は読んでいない。ちょっと格好つけるために書いてみた)。
モンテッソーリなどの教育方針では、子供の自由の中から自律と自立が育まれるとされ、遊びが尊重されている。ことわざにも「よく遊びよく学べ」という言葉があるように「遊びは害悪で勉強(訓練)だけすればよい」は建前で、本気でそれを実践してきた文化文明というものはこれまでほとんどなく(ギリシャ時代のスパルタなどはもしかしたら実践していたかも)、子供も大人も、遊びと勉強のどちらも必要としてきたのは間違いがない。
思うに、人間は遊ぶために勉強しているような気がする。
人類の進歩のため、とか、人間の生活を豊かにするため、という名目でも、本来の目的は「楽」のため、なのではないか。
話がそれたが、文学というのも、結局は娯楽を追求しているのではないかと思う。「読む」というのは一種の快楽や娯楽で、知識を得るだけではない何か、情動を動かしたり、主人公になりきることでロールプレイングをするといった、そういう「遊び」「楽しさ」を含んでいるものだ。知識を得ることそのものが、娯楽ともいえる。
そう思えば、文学と娯楽の間に、溝なんてあるのだろうかという気がする。
文学の中の微妙な区分け
これまで文学は高尚で、エンタメは俗悪とされがちだった。現代に近づくほどに分類は細かくなり、文学の中にも「純文学」と「文学」と「大衆文学」いう微妙な区分けも存在する。
ちなみに純文学の定義とは「純粋な芸術性を目的とする文学」らしい。読者のための娯楽よりも、自分が興味を持つ分野の芸術の追求として書かれたものらしく、明らかに「ただの文学」より一段高い位置に置かれている模様だ。
例えば公募などは、「純文学」寄りなのか「大衆」寄りなのかで傾向が違い、選者もそれらしい人物が選考員となって選考するという。大学受験のように傾向と対策(この場合は例年の作品の傾向をつかんだり選者の好みに合わせるなど)を講じる必要があるそうだ。
「芸術」というものは、文学のみならず、フィギュアスケートにしろ、ダンスにしろ、絵画にしろ、短歌俳句にしろ、それぞれの「世界」がある。その世界には「権威」があり「他人の好み」がある。
「その分野のオーソリティが認める」ことに価値が置かれていて、ある意味、偏っている。
芸術を見出すにも学と才能が必要なのだから、その分野の偉い人が認めてくれなければ、素人には良いのか悪いのかもわからない、というのが前提になっている。
美術の方面でその辺を覆したのがマルセル・デュシャンだと思うのだが、キュビズムとかダダイズムとかシュルレアリスムとかの先には、結局旧態依然の権威とアヴァンギャルドが軒を連ねているのが現実なのだと思う。それは文学においても同じで、いかに「既存のシステムや常識をぶっ壊せー」「理性に頼るなー」「分解して違う形に組み直せー」といったところで、文壇や賞レースの権威は覆らない。
芸術とはそういうもの、というしかない。
かつてフィギアスケート競技では、いかに技術点が高くても芸術点が低ければランキング上位に入れないものだった。今は技術構成点が加味されたり、芸術点より技術点に重きをおくことにしたりと迷走が続いているようだが、技術偏重になればジャンプ競争が加速してしまうし、芸術偏重になれば基準があいまいになる。最近はより公正を期すためにAI判定を導入しはじめているようだ。回転の微妙なずれも見逃さないAIが、勝敗を決めるらしい。
文学は極めれば極めるほど、大衆には受け入れられない。マスに広がり過ぎたものはチープになり、俗となり、芸術性を失う。その矛盾。
ああますます、わからなくなってくる。
そもそも矛盾をはらんだ「文学とは何か」を考え始めると、どんどんわからなくなる。どんどんわからなくなっていくことを考えるのが文学の文学たるゆえん、なのかもしれない。
文学フリマ
ちなみに私がこれから参加しようとしている「文学フリマ」は、このように定義されている。
「自分が<文学>と信じるもの」であるので、出店案内には次のようにも記されている。
文学フリマのWEBサイトのアーカイブには「3分でわかる文学フリマの歴史」が記されている。
どうやら、発祥には文学をめぐる「論争」があったようである。ネットで検索する限り、その内容は、論争を巻き起こして発祥の発端となった大塚英志氏も受けて立った笙野頼子氏も、正直どっちもどっちのような感じだ。が、それも20年も経ってからの、全くの部外者だからの感想ではある。
2002年に大塚氏の提案で来場者1000人からスタートした文学フリマは、2003年には有志による運営になり、地道に愛好者によって支えられ続けてコロナ禍前の2019年には最多の6,044人に達し、メディアでも話題にされるようになった。制限が加わったせいでコロナ禍に一時期来場者が減ったものの、コロナ禍明けの2023年5月には、初めて来場者数1万人超えとなる。
11月には会場の東京流通センターの別のビルを使うことになり、2024年11月の開催からはついに東京ビッグサイトが会場になる予定だ。
どうやら、この数年で急激に知名度を上げ、大規模になったらしいことがわかる。
私なりに、その理由を考えてみた。
①2007年にkindleデバイスが発売され、kindle出版が始まって以来、2010年頃にはデバイスがスマホに移行しより身近になった。それから10年ほどかけて技術が進み、市場も成熟し定着してきて、個人が出版するハードルが大幅に下がった。
②ZINEなどオンデマンド印刷で高品質な自作本を作ることができるようになった。
③コロナ禍で人々に時間が出来て、ブログやnoteなどのプラットフォームで文章や作品を創作する人が激増した。できた作品は発表したくなり、その場を求めた。
出版社に勤めている方や文筆家の方も文学フリマには多数出店する。出版社にお勤めならさぞかしその道に詳しくて本も出せるのではと素人は考えるが、本というのはかなりの人数が関わる商品であり、基本的にオフセット印刷のため初版で3000部以上、などというのが通常なのだという。昨今、ただでさえ紙も値上がりしていて、相当な薄利多売。個人がそんな冊数を刷って売り上げられるわけがない。だから本好きの趣味として少数部の本を作って楽しみたいのだそうである。
文学は誰のためのものか
文学は誰のものなのだろう。
「読者のための娯楽より自身の芸術の追求」であるべきなのか、それとも「誰もが読み、書き、売り、楽しめる」ものであるべきなのか。
そしてそれは、どちらも「文学」といっていいのだろうか。
20年前、大塚氏が文学はいまでいう「オワコン」だと言ったのは「出版社は漫画(サブカル)によって儲け、純文学を存続させている」という主張が論拠だった。
でも今は、漫画雑誌ですら、以前ほど売り上げは伸びなくなっている。
読書人口うんぬんより、なによりも日本の人口が減っていることが最大の原因だ。オンラインで即時に書籍を購入できるようになったのもあり、地方の小さな書店は軒並み潰れている。
コロナ禍で読書人口は増加しているという調査もあるらしいが、コロナ禍明けで、実際のところはどうなっているのだろう。信頼できる調査はネットでは見つけられなかった。だいたい、ネット上にあるデータはだいぶ怪しい。周囲を見渡して肌感覚?で言うと、正直、そんなに本を好んで読んでいる人が周辺にはいない。それでも、書店にいけばずらりと本が並ぶ。この世には本を読む人しかいないんじゃないか、という量に感じる。
書店にある本の量は、ここ何十年も変わっていないように思える。むしろ増えたようにさえ思う。でもそこには少なくとも「文学」という雰囲気はあまりない。
版権が切れた古今東西の名著は「青空文庫」でタダで読めるようになってしまった。かつての文豪の重厚な装丁の紙の書籍は、古本屋に行かないと手に入らない。それも、ごくわずかの愛好家が競って求めるだけで、日本国中が喉から手が出るほど欲しいものというわけでもない。
では、書店には「何が」あるのだろうか。
好きな作家さんのシリーズ物でも、単行本が重版しなければ文庫にもならない、というようなことが往々にしてある。最初から文庫でしかでない、というものもある。
私が棚を持っている「PASSAGE」を起ち上げた鹿島茂氏は、ご自身の著作があっという間に書店に並ばなくなるという現実に業を煮やし、それならば書店を作って売ろうと思ったそうである。
著名な作家さんでも、そのような現状がある。
それでも今でも「文壇」のようなものはしっかりと存在しているようだ。それについて、私は語る言葉を持たない。「権威」は必要なのだ、たぶん。誰かがいいですよと太鼓判を押さなければ、良いのか悪いのかわからない、という消費者(ここでは読者ではなく)がそれを支えている。
だがしかし、ここで権威主義は良くないなどと言って、本の良し悪しの判断にAIを投入するようなことになったら、それは今度こそ本当に、文学の死、になるのかもしれない。
「ごった煮」の中に、1000年残る芸術は、果たしてあるのだろうか。
なんだかもう、結局あと1000年残るのは、日本では「源氏物語」だけなのかもしれない。
紫式部以外、勝たん、という結論なのか。
ここまできて。
今はもう、考えるのがめんどくさいから全部「文学」でいいんじゃない、という心の声にとりあえず従って、今度の文学フリマに行こうと思っている。
私の作品は文学ですか。
あなたの作品はどうですか。
気がついたら6000字くらいになっていました。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
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