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ふたつの国宝 #シロクマ文芸部


752年 奈良 東大寺 廬舎那仏 

 金色こんじきに輝く廬舎那仏が私を見下ろしている。見下ろされた私は昂然とおとがいをあげてその像を見上げた。宗教と芸術がせめぎ合っている。出資者スポンサー芸術家アーティストの関係に、何かが絡みついている。いや、偶像アイドルと信仰の関係に、欲望が絡みついているのか。完全に純粋ではない何かが、私の目を曇らせる。

 どうだすばらしいであろうと国家の顔をした男が偉そうに言うが、作ったのは他国の人間の技術と名もなき人々である。
 私の国はとうになく、私の祖父は祖国を失いこの国に帰化した。どうしても知識寺を超える大きな仏像が良い、四十大尺以上で作れと宣うが、そうしたらそれ以上に巨大な大仏殿が必要になる。他国の技術を己がために使役して、私には位をやるという。疫病や災害から人を救うため、鎮護国家のためと男は詭弁を並べ立てるが、そのために行基がどれほどの犠牲を払ったか。その数のべ260万。この世に生きとし人々のほとんどが、この事業に関わっている。尽力しこの日を待ち焦がれた行基は、今は亡い。
 
 この巨大国家計画は、千年、二千年の時を超えて在り続けるであろう。私にはその道が見える。私は瞼を閉じ、いつかの時の果てに暮らす市井の人々の心の安寧を思う。祈りの先を見失わないように。科学の心と信仰とを、冷静さをもって詳らかにしながら、失わないように。しかしこの国は混沌を好む。よく言えばおおらかで寛大に、他国の信仰をやすやすと受け入れ、利用しながら翻弄され、翻弄されながらもしたたかに融合を繰り返す。

 私は再び刮目すると、技術者の目で大仏殿の仔細を観察しながら、廬舎那仏を見上げた。宇宙を遍く照らす光、宇宙そのもの。なあおい、そんなものが人間に作れるか。四十大尺に収まりきれるのか。人の姿になど、落とし込めるものなのか。想像を超える大きな存在が人間には必要だと、信じたからこの大役を引き受けたのだ。しかし人の欲望はもっと計り知れぬ。これを作ったらもっと大きいものを、もっと高いものを、もっともっとと望むのだ。あの男の目が、そう言っている。

1900年 鎌倉 高徳院 阿弥陀如来

 大仏殿は流されてしまったというのに、雨ざらしのまま衆生を見守り続けてくださる、なんと気高いイケメンなお姿か―――

 奈良の東大寺の大仏は、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸から今に至るまで、大地震や戦火によって頭部が落下したり大仏殿が焼失したりと廬舎那仏自体も損害を免れなかったにもかかわらず、修復に修復を重ねて現在も大仏殿とともにかつての姿を保持している。
 しかし鎌倉の大仏は大仏殿の修復はされずに、500年もの間、露座ろざのままである。

 1900年、鎌倉の大仏が国宝に指定されたこの年、鎌倉でこの大仏を見上げる女がいた。与謝野晶子、本名はしょう。不倫の末、詩人・与謝野鉄幹をわがものとしたセンセーショナルな歌人だ。まさか87年後に同じ大阪の女がセンセーショナルな歌集『サラダ記念日』を出版するとは露知らず、この時鎌倉の大仏に拝して一首、詠んだ。

 かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな

『恋衣』与謝野晶子

 そのおよそ30年後の富山の高岡大仏開眼の折には、「鎌倉の大仏様よりハンサム」と浮気しているが、この時は真剣だったのである。晶はいつだって真剣勝負だ。夫一筋、子供一筋、歌一筋。
 
 この歌が歌碑になってのち、鎌倉は報国寺領内に住んでいた頃の川端康成が、小説『山の音』の中で「釈迦牟尼ではなく阿弥陀如来の間違いだ」と書いた。
 晶は何度頓挫しようと長い歳月をかけて『源氏物語』を二度最初から書き直した女である。そんなことに慌てふためくものではないが、「釈迦牟尼」のところを「おすがた」と直し高徳院に奉納した。
 それに対し歌人の吉野秀雄は歌として素晴らしいから釈迦牟尼でいいじゃないか、と晶を庇ったという。

 阿弥陀仏では「美男でおわす」が生きてこない。晶の持つ「ものの見方」は、性別、身分、権力といったものから常に自由であろうとし、フラットだった。晶は大仏に人の心が求める「偶像」をみたのである。建立時の金色が消え、雨風をしのぐもののない、露座の、宋の銅銭を搔き集めて鋳造された、ありのままとなった「おすがた」を見た。それが、普段人が見ぬところに光を当て、人の心に鮮烈に響いたのだ。
 歌碑は今も、大仏のおはします裏手にひっそりとある。

 


後記

 東大寺の廬舎那仏と鎌倉の阿弥陀如来。どちらも最初は金色に塗られていた。仏像は金色で仕上げる、あるいは金箔を貼ることが当然とされていた。世界中、と言っても主にアジアにある仏像を見渡しても、それが上座部仏教で釈迦牟尼であってもやはり、仏像は金色である。

 廬舎那仏は宇宙神、遍在する光、と呼ばれている。
 阿弥陀如来は宗派や教義によって大日如来とも同一視されている。こちらも人間界を超越した存在だ。
 釈迦牟尼はブッダの解脱後の姿で、位は廬舎那仏と阿弥陀如来の下とされているらしい。他に観音菩薩や薬師如来などがあるが、こちらは主に「衆生を救う」大乗仏教の仏である。
 つい「仏像」と一緒くたにまとめてしまいがちだが、まとめて束にすると怒る人たちがいるので要注意だ。
 宗教とは自らと衆生をあまねく救うものだと思うのだが、どんな宗教も自分とこ以外はダメで、それは違う=違うから敵、みたいなのが不思議でならない。
 だから私は特定の宗教は持たないことにしている。
 私のように既存の宗教にフィットしない人の中には、スピリチュアルに走ってしまう人もいるのだが、私はそこのところも(好きだけど)遠巻きにしている。どちらも興味深い。あんまり興味深いので『春告鳥』を書いてしまった。主人公が僧侶、などと言ってしまったから、どっぷり宗教的、と思われているなら少々心外だし、お門違いではある。読んでから言って。笑

 東大寺の廬舎那仏を作ったのは行基、というのは有名だが、行基は国中を回って寄付を集めたというから、奈良の大仏も国家の公庫だけでは賄えない大プロジェクトで、クラウドファンディング的な側面もあったと思われる。
 実際に鋳造・建築に携わったのは国中連公麻呂くになかのむらじきみまろ(君麻呂とも)。百済からの渡来人を祖父に持つ人だった。

 鎌倉の阿弥陀仏が、なぜ今でも野ざらしなのか、その理由は定かではない。そもそもが庶民の寄進クラウドファンディングで建立されたもので、鎌倉幕府や北条は無関係だったこと、大仏殿を修復しても修復しても、地震や津波などの自然災害によって消失してしまい、いつしか修復をするものもいなくなったと推定されている。
 奈良の大仏と同じように国家事業で、出資者スポンサーが朝廷なら大仏殿は今も荘厳に存在したのだろうか。

 先日、すまスパの「地球儀ぐるぐる」で鎌倉の大仏さまのことに触れられなかったので、ふたつの国宝からインスパイアされた物語を作ってみた。お題の「金色に」は、タイトルではなく、本文からのスタートとさせていただければ有難い。

 鎌倉には京都にもある「長谷寺」があって、「地球儀ぐるぐる」にもちらりと話に出たのだが、「長谷寺」の巨大な観音様についても話したかったことがあった。

 奥深い鎌倉。奥深い仏の世界。
 敬意を払いつつ、楽しんでいる。

 #シロクマ文芸部