受傷告知
紅葉唐門からひとりの僧がかすかに香を漂わせながら衣擦れの音だけをさせて出て行った、きびきびと。唐門の左右にある紅葉が紅く、朱く、ささと風に揺れていた。
正子さん、お待たせしましたと、現れた老女が微笑む。ああ幸子さん、いいえ待ってはいないのよ、今きたばかりと、こちらも微笑む。双子のように帽子をかぶり、双子のようにほんの少し背を丸め。年経た女たちは紅葉唐門という愛称のついた唐破風の門をくぐる。それぞれ左右の端のほうを選び、低い平均台を乗り越えるように、そろそろと足を運んで着地した。
「真ん中を通らない、というのは神社だけではないのかしら」
帽子を脱いで斜めがけのカバンに仕舞いながら、少しおっとりと正子が言う。
「そうねえ。お寺は、敷居を踏まない、というお約束じゃなかったかしら」
幸子が答え、正子に習い帽子を脱ぐ。黒と臙脂のウォーキングシューズを履いた足がふたりの軽い身体をそっと前に運ぶ。
本堂までまっすぐに石畳が続いていた。その石畳の両脇にも、見事な紅葉の並木が続く。赤ん坊の手のひらのような大きさの真っ赤な葉が、秋の風に、さわさわと鳴りふたりを迎えた。
「このお靴、いいわ。正子さんのおっしゃる通り」
「そうでしょう。誂えてからこればかりなのよ」
それからはふたり、歩くことに集中した。転んではならない、と、子や孫から言い聞かされている。黙って本堂にたどり着いた。
「このお寺は階段が少なくていいわね」
ひと通りお参りを済ますと、合わせた手を胸、腿の脇に順に置き、正子が言った。幸子はそうねえと正子の後に着いて、本堂の横にある竹のベンチにふたり並んで腰かけた。
「昨日ねえ、息子から電話があったわ。私がね、どうしているかしらと思ったとたんよ。以心伝心というのかしら。普段はそっけなくて、そうそう、寄越さないのよ」
正子が言った。
「あら。それはよかったわね。おひとり暮らしを心配なさっているのでしょうね」
「ええ、やっぱり親は、ほっとするのね、子供の声を聴くと」
「そうねえ。昭三さん、亡くなられてからどのくらい経ちます?」
「もう二年になります。夏に三回忌を済ませたの。生前は喧嘩ばかりでしたけど、今は静かすぎて。無いものねだりね」
さやかに風が吹いた。その風に身体を押されたように、ふと会話が途切れた。
「お膝、どうかしら」
幸子が訊ねると、正子は、ええだいぶ良いのよ、もう痛みはずいぶん和らいだのと膝をさすった。
「杖が取れて良かったわ」
「この頃の病院は、厳しいのよ。すぐリハビリ」
「そうねえ。先日入院された中島さんもそんなことおっしゃっておられたわ」
「駅ビルのアフタヌーンティーにしましょうか」
突如話が変わって、幸子は、ほほと笑った。
「正子さん、あのお店お好きね」
「だって洒落ているじゃないの。若いころにあんなお店で昭三さんとお茶を飲みたかったわ」
「モダンねえ」
幸子は二年前に夫を亡くし膝も傷めて意気消沈していた正子を思い出し、元気を取り戻した彼女の様子を好もしく思った。
「東京へは、行けるかしら。来月の展覧会」
幸子が尋ねると正子は色の薄くなった眉を下げた。笑うと、眉が下がるおかめ顔だ。ええもちろん、とても楽しみにしているわ、という正子に頷き、幸子はふと顔をあげた。
「あら木漏れ日が。美しいこと」
つられて正子も顔をあげ、揺れる紅葉の間からこぼれる秋の陽に目を細めた。
「ねえ。日本の四季の美しさって素晴らしいわね。また雪景色の時にも来たいわね。桜が咲いたら、紫陽花が咲いたら、また一緒に来ましょうね」
幸子の言葉に、正子はええ、ええと頷きながら、少し涙をこぼした。
「八十五年生きてきて、たくさん失くしものをしたわ。たくさん、傷ついた。戦争もあったし、ひもじかったし、失恋もした。仕事も無くしたし、家もお店もなくした。死にたいほど辛いこともあったわ。でもいいことも、楽しいこともたくさんあった」
「幸子さんは立派よ」
幸子はそっと、正子の手を取った。
「今は、歩いて出かけられる間は出かけて、食べられる間は美味しいものを食べて、見える間は美しいものをみていたいの。美しい言葉を聞いて、美しい言葉を話したいの。この紅葉のような、一期一会の静謐な美しさを目に焼き付けたいの」
正子は、幸子が先日内臓に腫瘍が見つかったと連絡してきたときのことを思い出していた。そしてまるでついでのように、長く夫の暴力に耐えていたことを打ち明けられた。幾星霜を彼女と共に過ごしたのに、幸子がそんな境遇にあったことを、正子はそのとき、初めて知った。
「たくさん、展覧会に行きましょう。映画もいいわね。雪が降ったらまた来ましょう。幸子さんの好きなお寺に行きましょう」
正子の言葉に、幸子はうん、と頷いた。
「でも私にとっていちばん美しいことは、正子さんがお友だちでいてくれることよ。ありがとう、正子さん」
にっこりと笑う幸子に、正子も微笑を返し、鼓舞するように明るい声をだした。
「アフタヌーンティーで、何を食べましょうか」
「あそこは季節のメニューがあるでしょう。今は栗のデザートもあるかもしれないわね」
その時また風が吹き抜けた。この頃は、昼を過ぎると気温が下がり、風が冷える。その風が、ひらり、ひらりとふたりの上に紅葉を降らせた。
そのうちの一枚が、正子の伸縮性のあるチャコールグレーのズボンの膝に、はらりと乗った。
「ねえ。ここに来た時にすれ違ったお坊さん。ハンサムだったわね」
正子はそう言って、幸子にその一葉の紅葉を渡した。
「あらいやだ。正子さんも、そう思っていたんだ」
紅葉を受け取って、幸子がそう言って、笑った。
若い僧侶の、さくさくとした足運びが思い起こされた。
ふたりは、なんの相談もないままに無言でカバンから帽子を出す。それからゆっくりと立ち上がって歩き出した。阿吽の呼吸で。
影を長く伸ばしながら、ゆっくり、ゆっくり、ふたりは歩く。
口笛のような鳴き声で名前のわからない鳥が鳴き、金色の光に照らされた茜の紅葉が、さやさやと手を振るようにふたりの背を見送った。
了